GNHの起源
1つのデータがある。2005年にブータン政府が実施したセンサス(国勢調査)で、「あなたは、幸せですか?」という質問がなされ、「幸せです」「まあ幸せです」を選択回答した人の数を足し合わせると、何と95%以上に達した。これだけ多くの国民が幸せであると感じているブータンは、GNH(Gross National Happiness グロス・ナショナル・ハッピネス)を掲げて国づくりを進めている国。ブータン発のGNHとは一体何なのだろうか?GNHを提唱したのは、ブータン第4代国王ジクメ・センゲ・ワンチュック。彼は、1972年に弱冠16歳で王位を継承、76年にスリランカで開かれた第5回非同盟諸国首脳会議に出席し、記者会見の場で「GNHはGDP(国内総生産)より重要だ」と発言、ブータンの国づくりの柱として、GNHを掲げた。ブータンの国王は、国の経済力を示すGDPではなく、国民の生活への充足度を高める社会づくりを目指し、それをGNHという言葉で表現したのだ。
GNHと「相互依存関係性」
GNHの考えの根本を形成するキーワード、それは「相互依存関係性」にある。「相互依存関係性」の意味を理解するには、仏教の「輪廻転生(りんねてんしょう)」の考え方と重ね合わせて理解すれば、わかりやすい。輪廻転生とは、人、動物、昆虫など、生きとし生けるものの間で生まれ変わりが連綿と続いていくとする考え方。この考え方に立てば、たとえば、目の前に現れた一匹の犬は、もしかすると、自分の祖父の生まれ変わりかもしれないと思い、その結果、その犬への慈しみを感じる。すべての生命を、何らかの形で自らとつながるものと考え、その結果、他者を、動植物を、動植物の暮らす山、川、海、土、木を大切にすると考える。
GNHとは、相手への思いやりの気持ちが中核にあるといってもよいだろう。つまり、自分ひとりの利益を優先するのではなく、つながりのある人、社会、自然環境の間の依存関係のもたらす利得は何かを考え、それを大きくしていこうとする考え方、それがGNHの概念だといえる。
GNHの4本柱
ブータン政府は、GNHは4つの柱で成り立っていると概念化した。4本柱は、(1)公正な社会経済発展、(2)環境の保全、(3)文化保存、(4)よい政治、を指す。GNH社会とは、経済発展は大事だが、国民の間に大きな生活格差をもたらすことのないようにする、生態系を守り大切にする、長年かけて培ってきたブータン社会の文化を大切にする、人々が意思決定に参加できるような政治のしくみを持つことを基本にする、という考え方に立つものだ。
GNHと憲法
具体的にどのような政策を進めれば、GNH社会づくりへと向かうのか。ブータン政府は、それまでの君主制から2008年に選挙によって議会制民主主義を導入し、初めての憲法を制定・発布した。この憲法の第9条第2項の中に、「政府の役割は、GNHを追求できるような諸条件の整備に努めることにある。」という形でGNHが明記されている。つまり、GNHというのは、個々のブータン人の幸福度を無理やり保障したり、幸福を定義づけたりするものではなく、個々のブータン人がさまざまに思い描く充足する生活を実現できるよう、政府がブータンの社会環境整備に努めることを規定するものなのだ。具体的に政府がすべきこととして、憲法の中から、いくつかを例示しておこう。所得格差や富の集中を最小限に努める、10学年(6歳から16歳)までの無償教育を保障する、近代医療と伝統医療を用いて国民に無償で基礎的公衆衛生サービスを提供する、国民に働く権利や職業訓練の機会を与え労働条件の整備に努める、国土の最低60%以上を森林として保全する、地域生活の協働や世代拡張家族の保全に努める、などが挙げられる。
これらでGNH社会が目指すものの具体的イメージをつかむことができるだろう。
GNH指数
ブータン政府は、GNH社会の達成目標を具体化し、その進捗(しんちょく)状況を確認するために、08年に国立ブータン研究所からGNH指数を発表した。GNH指数とは、GDPを代替する発展指標の1つともいえ、ブータン国民がどの程度まで生活への充足度を高めているかどうかを測るための「ものさし」である。GNH指数では、(1)暮らし向き、(2)体の健康、(3)心の健康、(4)教育、(5)環境、(6)文化、(7)時間の使い方、(8)コミュニティーの活力、(9)よい政治、の9つの生活領域において、どれくらいの人がどの程度まで充足水準に達しているのかを計測する。GNH指数によって、充足度の低い領域を見つけ出し、改善策を講じていくのである。
08年に公表された総合GNH指数は、0.805、つまり、約80%の国民総幸福量ということであった。ブータン政府は、この値が改善するように方策を講じ、それがどのように推移していくのかをチェックしていくことにしている。
ブータンのチャレンジ
このように書いてくると、ブータンのGNH社会づくりは、順風満帆に聞こえてくるかもしれない。しかし、ブータンに問題がないわけではない。近代化を進めていくにあたり、若者の就職先の不足、インターネットや衛星放送による海外からの生活文化の影響など、私たちにもなじみのある問題も見られるようになってきた。この国が果たして、人々の幸福を尊重した国づくりを実現していけるのかどうか、当分の間、国内外で注目を集めていくことは間違いない。そして、ブータンの掲げるGNHは、生活や人生を豊かにするのは、GDP(お金)の大きさだけではないということを先進国に住む私たちに伝えようとしているのではないだろうか。