なぜ多くの犠牲者が出たのか
武装集団は、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)の分派の「血盟団」とされ、総勢32人の実行部隊が、リビア国境方面から十数台の四輪駆動車で、攻撃対象施設へ向かった。武装集団は外国人の人質を取ることによって、これに先立つ13年1月11日、マリ北部のイスラム主義武装集団の南下を防ぐためのフランス軍による軍事介入の中止などを要求した。しかし作戦は数カ月前から準備されたとして、政治目的か単なる運動資金目的かあいまいなままである。この人質事件が多くの犠牲者を出した直接の原因は、アルジェリア政府が事件発生時からテロリストとは交渉しないと明言し、人質を交渉材料にしようとして人質とともに移動した武力集団を無差別に攻撃したことであった。このアルジェリア政府の強硬姿勢については、人質国のイギリス政府などから事前の連絡がなかったことへの抗議が出された。しかしここには、アルジェリアの現政権が1990年代に民主化のよじれ現象からイスラム主義武装集団への対策で泥沼化し、軍と武装集団双方の応酬で数十万の犠牲者を出したという時代背景がある。同政権は、内戦状態に終止符を打つべく、99年にイスラム主義武装集団メンバーたちの大量恩赦を含む国民和解を打ち出し、治安不安から撤退していた外国企業が戻るなど、その対話路線が軌道に乗って、成果を見せ始めた矢先の出来事であった。
「アラブの春」とイスラム主義武装集団の台頭
他方、アルジェリア国内の対テロ戦争中に、国外にはじき出されたイスラム主義武装集団の一部は、自分たちの居場所を得るため、近隣イスラム諸国に拠点を見つけようとした。ところが、エジプトのムバラク政権、チュニジアのベンアリ政権、モロッコのムハンマド6世の王国のいずれも、対テロ戦争に貢献する親米政府であったため、イスラム主義武装集団は行動範囲がきわめて限られていた。しかし、2012年の民主化運動「アラブの春」によりチュニジアとエジプトの実質的軍事世俗政権は崩壊し、親米独裁政権のモロッコ王国も未曽有の民主化の圧力にさらされた。それによってイスラム急進派は、民主化に伴って国内が政治的に流動していた時期に、比較的たやすく北アフリカ社会に復帰することができた。とりわけ、11年3月のリビアのカダフィ政権下での民主化運動は、同政権下で弾圧されてきたイスラム急進派を近隣諸国から引きつける結果となった。さらに、フランス、イタリア、アメリカなど北大西洋条約機構(NATO)による人道的介入を理由としたリビアへの空爆が、北アフリカの和平秩序の崩壊に決定的な役割を果たした。カダフィ政権下で民兵に近い形で雇用されていたアフリカ系要員も職を失い、他方では政権が維持していた武器庫から大量の武器が流出し、サハラ砂漠南縁部のサヘル地域におけるイスラム主義武装集団の活動を制約していた要因が著しく減じられた。
マリのクーデターとフランスの軍事介入
一方、マリ、ニジェール、チャドなどのサヘル諸国内部では、1980年代からの経済改革によって緊縮財政を強いられたこと、また雨量の少ない気候帯であることもあり、人口の少ないサヘル諸国北部の保健医療、水、学校などの社会サービスがさらに劣化ないし不足していた。それに対してこれらの諸国の北部を横断して生業を続けてきた遊牧民のトゥアレグ人を中心とする住民は不満を募らせてきた。60年のフランス植民地からの独立以来、南部のアフリカ人が中枢を占めてきたサヘル諸国中央政府に対する帰属意識の欠如は、歴史的にはトゥアレグ人の自治・独立運動として存在してきたが、近年中央政府が弱体化したことで、トゥアレグ人の活動は一層活発化していた。2012年3月、マリの中央政府および国軍による、マリ北部でのトゥアレグ人独立運動への対策が不十分であるとして、マリ国軍の下士官がクーデターを起こし、同国の政情不安はさらに深まっていった。この混乱に乗じて、同年4月にはマリ北部で活動してきたアザワド解放民族運動(MNLA)がアザワド独立宣言を行った。しかし、この運動にサハラ砂漠の反対側(北縁部)のアルジェリアやリビアなどからアルカイダ系武装集団が合流し、軍事力の優れた後者が、独立派のMNLAの拠点であったトンブクトゥ、ガオ、キダルなどで主導権を握り、マリ北部はアルカイダ系集団の自由行動圏となってしまった。これらの北部都市では、イスラム主義民兵が治安を担い、イスラムの聖典クルアーン(コーラン)の教えを守らせるという理由で、犯罪者には手の切断などの刑を処すなど、住民の生活を厳しくコントロールするようになった。ニジェール北部でウラン鉱山を開発しているフランスは、これらの武装集団の支配が同国にまで及ぶのをおそれ、12年12月20日、国連安保理決議でイスラム主義武装勢力を排除する国際部隊の展開の承認を取りつけた。同時期、アルジェリアを公式訪問していたフランスのオランド大統領とアルジェリア側は、マリでのアルカイダ系武装組織排除対策で政治的解決を探る点で一致していた。しかし、予想外のアルカイダ系武装集団の拡大に対し、翌13年1月に、アルジェリア政府の了解の下で「北爆」に踏み切った。
包括的な域内和平秩序をいかに作るか
このように、アルジェリアの人質大量犠牲者事件は、北アフリカの政変(チュニジア、リビア、エジプト、モロッコ)と、サハラ砂漠南側のサヘル諸国(マリ、ニジェール、チャド)の中央政府の弱体化という、ふたつの時代背景のもとで展開した複合地域紛争の中で生じたと言える。今後の対策としては、まずは北アフリカおよびサヘル諸国の政府間の域内対話を通じて、包括的な和平秩序の枠組みを作り上げることである。具体的には、地域住民の福祉を優先する実効性のある汚職無き社会開発の実現と、麻薬や武器の貿易も含めた実効的国境コントロールの確立が必要と考えられる。