前夜、台北市の中心にある行政院(内閣府)に突入した台湾の学生たちが、機動隊によって強制排除され、頭から血を流す彼らの姿が、テレビの画面を通して生中継された。年格好も私と変わらない無防備な若者たちが、武装した機動隊の警棒や盾、放水車からの攻撃を、ただ互いの腕と腕を組み、身を寄せ合い耐えながら、シュプレヒコールを叫んでいた。強大な国家の権力の前では、民衆がいかに弱小で無力であるかということを、彼らは改めて自らの身を呈してあらわにした。1980年代、戒厳体制(1949~87)下末期の学生運動(学運)を描き、一昨年台湾で話題をさらった映画「GF*BF」(2012年)の中に、来たるべき民主化への期待を表現した「もう寝なさい。目が覚めたとき、台湾は変わっている」というせりふがあった。しかしいまは目を見開き瞬きもせず、起こるすべてを見なければならない。一分一秒を見逃すと、「民主的」な台湾が次の瞬間には、違う台湾になっているかもしれないから。
◆学生による史上初の国会占拠
3月17日、立法院(国会)で開かれた、中国と台湾間の「両岸サービス貿易協定(海峡両岸服務貿易協定。以下服貿)」の批准に向けた審議を行う内政委員会で、圧倒的少数派の野党民進党の議員らが委員会への参加をボイコットする中、与党国民党はまったく審議の行われていないこの法案の第一審を強行可決させた。翌18日夜、服貿に反対するいくつかの社会運動団体が立法院の周囲に集まり抗議活動を開始した。その最中、「黒色島国青年陣線」と名乗る学生団体を中心とした数百人の民衆が警察の警備を突破し、立法院を占拠した。計画的な行動だった。彼らが占拠を始めた頃、ネット上の掲示板にはすぐさま占拠の実況を伝える情報が流れ始め、マスメディアのニュース動画では内部の様子を伝える映像が配信された。その映像の中に私の親友もいた。YouTubeライブ配信動画では、議場内の机や椅子は各出口のバリケードとして積み上げられ、「自己國家自己救」(自分の国は自分で救う)と書いたTシャツを着た学生が、警察の強制排除に対抗する訓練を繰り返していた。彼らは「捍衛民主、退回服貿」(民主を守れ、服貿反対)と叫びながら混乱の中でお互いを励まし合い、役割を分担し、徐々に新しい秩序(システム)を構築していった。台湾の立法院では、与野党議員の争いはよく目にするが、学生たちが主導した、台湾史上初めての国会占拠行動の非現実的(シュール)な光景は、台湾の民主制度の虚しさと脆弱さを赤裸々に表している。
◆儚い中国市場への夢
服貿とは、2010年に調印した「両岸経済協力枠組み協定」(ECFA)に基づき、中台間のサービス貿易(観光、通信、医療、出版、印刷、文化産業等)の規制を開放し、双方の貿易の自由化を図るため、13年6月に上海で締結された協定である。台湾の政府や大企業は、服貿の締結によって台湾を不況から救い、就職機会を増やせると再三吹聴しているが、08年に親中派の馬英九が総統に就いて以来、中国との経済関係は急速に緊密になっているにもかかわらず、若者(15~24歳)の失業率は14年1月に12.69%まで悪化し、給料は15年前の水準にとどまったまま、物価だけが毎年高騰を続けている。このような現状の中で、苦悶する台湾の若い世代は、海の向こう側の巨大かつ儚い中国市場への夢を、過去の世代よりは信用しなくなった。一方で、服貿に関する審議は、まったく不透明のまま、国民党主導で行われていた。政府は、服貿は中台間の政治とは無関係であると称しているが、3月17日の強行可決や審議の「黒箱」(ブラックボックス)的手法を見る限り、中国からの政治的な力が明らかに働いている。馬政権の親中姿勢、まるで中国共産党のように民衆に知られたくない情報を隠す独裁的な政治手法は、若者たちの中に徐々に怒りや不安の心を育てていった。
◆言論の自由が再び奪われつつある
過去の数十年間、台湾では言論の自由を得るための激しい社会運動が展開され、ようやく総統民選制度などの民主的制度が施行されたのは1990年代後半のことである。私と同世代の若者たちは、教育の過程で台湾という海島の歴史を学び、政治に参加できることに興奮した。しかし、民衆のヒーローであった政治家の汚職による失脚をも目撃し、民主的な政治への理想を失いかけていた。台湾が民主化を果たした同時期(97年)、中国に返還された香港は、17年経った2014年、新聞社の編集長らが次々に何者かによって刺される事件が発生するなど、過去の香港にはなかった言論の自由への圧力が顕著になってきた。こうした香港の苦境を目の当たりにし、私たちは初めて、戒厳令解除後に自分たちが手に入れたものの危うさを知った。近年台湾では、中国への批判的な記事を報じることをやめた新聞、テレビ局が出てきている。現状維持を望んでいた多くの台湾人が、その現状は、何かを起こさなければ保たれないのではないかと感じ始めた。「今日不站出來、明日站不出來」(今日立ち上がらなければ、明日はもう立ち上がることすら許されない)と書かれたポスターが今回の学運の現場で多く見られたが、これは、12年7月に香港で行われた民主デモ「七一大遊行」で使われたスローガンから借りた言葉である。
◆立法院占拠の24日間
3月18日に展開された「太陽花(ひまわり)学運」(命名の由来は議場の講壇上に置かれたひまわり)では、もともと服貿反対という趣旨で結成した学生団体「黒色島国青年」主導で、政府に対し四つの要求を出した。(1)中台間で結ばれるあらゆる協定に対し可視的な審議を行う「両岸協議監督条例」の立法。(2)監督条例が成立しない間は、中台間の協定に関する法案の審査を行わないこと。(3)民間レベルで政府の決定に対して監査を行う「公民憲政会議」を開く。(4)服貿反対。立法院占拠初日から、学生たちに声援を送る多くの民衆が立法院周囲の道路に連日座り込みを続けた。ところが政府からはまったく積極的な対応がなく、3月23日、タカ派の学生や一般市民たちが引き起こした行政院占拠事件とその後の警察の暴力的な強制排除を受け、3月30日、太陽花学運を支持する50万人の民衆が総統府前の大通りでデモを行った。4月6日、立法院長王金平が議場に入り「両岸協議監督条例」の草案が完成する前に、服貿関連の協商会議を開くことはないと承諾した。その後、リーダーの学生から、この運動の一つの目標が達成されたとの宣言がなされ、議場の中で24日間生活した学生たちは、4月10日夜6時に立法院からすべて撤退。585時間続けられた立法院占拠に終止符を打った。
◆台湾学生運動の歴史から学んだこと
1990年3月、台湾で初の大規模な学生運動「野百合(のゆり)学運」が起こった。戒厳解除直後の混沌の中、学生たちは国民党による専制政治体制へ改革を突きつけ、その成功によって、台湾の民主化は急速に加速した。それから24年後の太陽花学運、学生たちはあたかも戒厳令下の独裁政治に戻ろうとするかのような国民党の政治手法と、さらに、国民党の背後で糸をひく中国共産党へ、批判の声を上げた。彼らが野百合学運に比べて幸運だったことは、社会的な支持を得たことによる豊かな支援物資があったことである。また、議場内には医療隊や、弁護士団が常駐し、議場外では日夜、幅広い世代の支持者が泊まり込みで、彼らを国家暴力から守ろうと集まっていた。2008年「野草苺(のいちご)学運」などの社会運動に参加し、その失敗の経験によって多くのものを学び取っていた、若い学生主導で行った今回の学運は、大手新聞からネット掲示板にいたるまで多種多様のメディアを効率よく活用することで、彼らのメッセージを台湾全土、そして海外にまで素早く知れ渡らせた。その反応は、学運のメンバーたちの予想を超えた熱狂的なものであった。彼らの撤退時期の見極めもよかったのだろう、テレビは連日、彼らの議場からの撤退を、栄光の退場とたたえ、4月10日、彼らの24日間は輝かしくその幕を下ろした。