とはいえ、単に戦争を、殺人や拷問と同類の罪悪と名指しして禁止すれば、話が済むわけでもない。なぜなら、同時に戦争は、国際社会の秩序や正義を維持するための(少なくとも歴史的には)不可欠の手段であり続けてきたからだ。警察活動や刑罰制度と同様、暴力手段としての戦争は、良き目的を実現するための必要悪の性質をもつ。だからこそ戦争に直面して、私たちは倫理的葛藤に悩まされるのだ。
こうした倫理的葛藤に悩まされた時、倫理学の知見が解決の手掛かりを与えてくれる。倫理学とは、人々が価値判断を含む様々な選択の場面に立った時、そのための信頼ある選択の指針を提供したり、また指針の良し悪しを評価したりするための学問分野である。ここでは、戦争をいつ、またどのようにするべきか、あるいは、しないべきかを決める際の指針として発展してきた、「戦争倫理学」の概要をお伝えしたい。
◆戦争に倫理の余地はない?
その前に、そもそも戦争をする、しないの判断に、倫理が介在する余地などあるのだろうか。その倫理的良し悪しにかかわらず、他国から領土や国民を守るためには、時に必要に迫られて戦争をせざるをえないのが、国際社会の現実なのではないか。戦争が「許される」とか「許されない」とか熱弁を振るったところで、結局「やらなければやられる」のが世の必然である。このように戦争の是非に関して倫理的判断を拒絶する主張は、「政治的リアリズム(政治的現実主義)」と呼ばれている。
政治的リアリズムの特徴のひとつは、戦争を国際社会で時に生じる、人間の選択の余地を超えた避けがたい現象として捉えることである。これはまるで、戦争という人災を地震や津波のような天災と等値しているかのようだ。戦争は私たちにとって、プレートの摩擦がいつか地震を誘発するがごとく、国際社会の状況によって必然的に強いられている。実際、リアリズム(の一部)の理論家は、自然科学者が地震の原因を解明するように、戦争の原因を解明することに努めている。
しかしながら、戦争が起きることは、地震や津波が起きることと同類なのだろうか。あるいは、戦争はやはり徹頭徹尾、人間の行為の一種であり、政治家であれ軍人であれ民間人であれ、その意志的選択の結果もたらされたのではないか。もしそうだとすれば、戦争の「原因」を解明するだけでは十分ではない。自由意思に基づく人間の行為は、外的な因果関係のみならず、内的な意図や目的によっても左右されるからだ。こうして私たちは、なぜ戦争をするか、あるいはしないかの根拠を考えるにあたり、原因の探求を超えて、「理由」の探求に足を踏み入れることになる。
◆平和主義との関係
ところで、実はリアリズムの他にも、まったく別の意味で、戦争を私たちにとって意志的選択の問題ではないと捉える立場がある。それは、戦争の拒絶を宗教的啓示として示された絶対的な真理として捉える、「絶対平和主義(パシフィズム)」(の一部)である。彼らにとって、非暴力は単なる一選択肢ではなく、真理そのものである。戦争に正解は決してなく、非戦に不正解は決してない。この絶対的非戦の教えは、宗教的信仰を共有する人々の間でのみ通用する。例えば、歴史的平和教会のキリスト教諸派がこの立場に含まれるだろう。
筆者は別のところで、個人的信念としての平和主義(絶対平和主義)とは区別される、政治的選択としての平和主義(平和優先主義)の立場を明らかにした。それは戦争がもたらす本来的ならびに派生的な害悪と、それによって得られると見込まれる利得を慎重に勘案したうえで、戦争が政策手段として大半の場合割に合わないことを強調する。逆に言えば、それは戦争を、私たちが限界的状況によっては選択しうる、良し悪しの評価の対象として捉えており、したがって戦争倫理学の一学説として再構成できる。
◆二つの倫理学的指針
それでは、個々の戦争の是非を判断するに際して、倫理学の知見はどのように役立つのだろうか。ひとつの手掛かりは、義務論と帰結主義という伝統的な倫理学の理論を参照してみることである。義務論とは、ある行為の是非を、その「行為」それ自体に照らし合わせて判断する立場である。それに対して帰結主義とは、ある行為の是非を、その行為がもたらす「事態」に照らし合わせて判断する立場である。行為と事態という判断基準の位相の違いが、両者の立場を際立たせている。
一例を挙げよう。緊急事態において、5人を救うために一人を殺害せざるをえない状況に置かれて、私たちはどのような選択をすべきだろうか。義務論の観点では、5人の救命のためとはいえ、一人の殺人はやはり殺人に変わりなく、それゆえ「行為」の次元で決して許されない。対して帰結主義の観点では、重要なことはその行為によって生じる「事態」である。5人の死という事態と一人の死という事態を比較すれば、後者の方がまだましであり、したがって後者を引き起こす行為もまた許される。
以上のような義務論と帰結主義の間の意見の相違は、戦争においてもしばしば生じる。例えば、標的である軍需工場のすぐ脇に民間施設があり、巻き添えが生じかねない場合、私たちはどうするべきであり、その理由は何か。義務論的には、無辜(むこ)の第三者を殺害することは、目的の如何を問わず絶対的に許されない行為である。一方帰結主義者は、結果的に目指される軍事目標の重大性に鑑み、民間人をリスクにさらす決断をも許容するかもしれない。
さらなる問題は、これら二つの答えが、見方によってはどちらもそれなりに説得力を備えていることだ。義務論と帰結主義は倫理学の主要理論であり、相互の意見は時に鋭く対立するが、かといって安直にどちらかを捨て去るわけにもいかない。いつかすべての価値判断を説明しうる単一の原理原則が見つかればよいが、今のところ私たちは、(時に矛盾する)どちらの指針も同時に見据えつつ、個々の状況でその都度考量を重ねていかざるをえないだろう。
◆いつ戦うことが許されるのか
ここからは実際に、戦争の良し悪しとその根拠について考えてみよう。今日の国際社会で広く認められた戦争理由は、外国の侵略に対する自衛戦争である。それは国家主権と、究極的には国民の個人的権利の保全を目的とする。アメリカの政治哲学者マイケル・ウォルツァーが言うように、「権利の擁護は、戦うための理由である」のだ。戦争それ自体の是非にまつわるこうした倫理的判断は、「開戦法規」や「戦争への正義」(jus ad bellum)と呼ばれている。
個々の戦争をその目的に照らして正当化するためには、戦争主体が実際に抱いている意図が重要となる。祖国防衛という目的が、石油利権や封じ込めのような利害関心の単なる隠れみのになってはいけない。意図の正当性を担保するためには、戦争主体を国連のような中立的国際機関とするか、少なくともその承認や同意を取りつけることが必要とされるかもしれない。
加えて、正当な目的および意図に基づく戦争であっても、無条件に許されるわけではない。例えば、成功の見込みがあまりにも少ない、あるいは開戦によって得られるものと失うものとの釣り合いがあまりにもとれない場合には、その総体的帰結に照らし合わせて、戦争を見送り、他の平和的手段を模索すべきだという帰結主義的判断が下される。この条件を厳格に適用すると、これまで戦われた戦争の多くは、実は割に合わなかったということもありうる。