政府主導で導入されたインターネット
アラブ諸国にインターネットが初めて導入されたのは、1995年頃のことである。インターネットに関するプロジェクトは、一貫して政府主導で行われた。導入当初は、一部の大学と政府機関がインターネットにつながっているという程度であったが、2000年頃を境として、一般市民にも普及するようになっていった。背景の一つに、国のトップの世代交代がある。アラブ諸国は長年にわたって長期独裁の政権が続いてきたが、どんなに強いリーダーであっても寿命には勝てない。1999年にはヨルダンで、2000年にはシリアで、病死した父から息子へと政権のトップが交代した。
アラブ新時代のリーダー達は、その多くが欧米で教育を受けている。新しいテクノロジーに対しての関心も高かった。なにより、情報通信技術の飛躍的な発展によってグローバル化が一段と加速するようになったこの時期に、自国の経済を発展させていくためにはインターネットの整備は必要条件であった。
この時期、アラブ圏の都市部では、次々とインターネットカフェがオープンしていく。同時に、携帯電話の普及も本格的に始まり、街中には携帯電話販売店とインターネットカフェが溢れかえるようになった。
イスラムとインターネット
イスラムというと伝統的・保守的といったイメージが強いことから、インターネットなどの新しいテクノロジーを拒否するのではというイメージを持つ人もいるかもしれないが、インターネットに対するイスラム知識人たちの受け止め方や見解はむしろ逆であった。イスラムがより良く、より正しく理解され、実践されるようになるためのツールとしてインターネットはプラスの効果をもたらすのではないか、と考えたイスラム知識人たちは多かった。彼らは独自のイスラムサイトを立ち上げるなどして、インターネット時代の新しいイスラムの形を作り上げることに積極的に取り組んだ。一般のムスリムたちも、好んでこうしたサイトを訪問し利用した。インターネット利用の目的として、イスラムサイトを訪れるためと答えるムスリムは意外と多い。インターネットの普及過程でイスラムサイトという宗教的要素が一定の役割を果たしたというのは、イスラム圏が他地域と異なる点であったと言える。
もっとも、一般のムスリムの中には、インターネットを嫌う人々もいた。チャットなどを通して不特定多数の男女による「不健全な交流」が行われうるインターネットは、反イスラム的であるとの考えからである。
とはいえ、こうした人はどちらかというと少数派であった。「インターネットは、ラジオやテレビと同じくただのツールである。そのツールを善い方向に使うことも出来れば、悪い方向にも使うことが出来る。問題は、それをどのように使うかであって、ツールそのものは善くも悪くもない」というのが多数派の理解であった。
9・11とインターネット
こんな時期に起きたのが、2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ事件」である。事件後、実行犯たちについての捜査が進むにつれ、彼らがインターネットを駆使しながら連絡を取り合っていた姿が明らかになってきた。時には暗号技術も使ったが、意外にも平文でメールのやりとりをしていたこともわかってきた。イスラム国誕生の基盤となったアルカイダにも、初期のイスラムを理想とする思想的背景がある。その実現のためのジハード(聖戦)として9・11は計画され実行されたが、テロの計画から実施にいたる過程でインターネットが積極的に利用されていたという点は興味深い。恐らく、インターネット抜きで同じオペレーションを同じスピードと予算で行うことは出来なかっただろう。その意味で、9・11は、極めて21世紀的な事象だったと言える。
アルカイダは、9・11以降もインターネットを積極的に利用した。主に、広報活動と新たな戦闘員のリクルート活動としてである。テレビや新聞など既存のマスメディアを通して、アルカイダの思想を広めることは困難である。どの媒体もアルカイダの広報に加担することは拒否する。そんな中、自分たちの思想を発信できる唯一のメディアがインターネットであった。こうしたアルカイダ側の情報発信は、「対テロ戦争」を行う側としては攻撃し潰すべき対象となる。実際に、情報をアップしては消され、また別の場所にアップしてということを繰り返した。
アルカイダは、一連の攻防から経験を蓄積し、動画や掲示板サイトを効果的に使うなど、その広報戦略を次第に洗練させていった。実際に、こうした情報に触れ感化される若者も次々と現れた。新たなメンバー獲得のリクルート活動を行う上でも、インターネットは効果を発揮したのである。
ソーシャルメディアと「アラブの春」
ソーシャルメディアというインターネット上の新サービスが普及するようになると、インターネット利用の方法について新たな動きが見られるようになる。フェイスブック社は09年に、アラビア語版サービスを正式に始めるようになったが、この頃からアラブ圏でもソーシャルメディアが本格的に普及し始めた。10年の暮れにチュニジアで起きた政変(いわゆる「ジャスミン革命」)を発端として、エジプト、リビア、シリア、バーレーン、イエメンなどでも、大規模な民衆デモが発生したことは記憶に新しい。特にエジプトの事例では、ソーシャルメディアが30年間続いたムバラク政権を倒すにあたって一定の役割を果たしたとして、注目を集めた。
政府主導でインターネットを導入したアラブ諸国では、インターネット上の情報を政府がコントロールしてきた。ソーシャルメディアの影響力についても、政府の側が無頓着であったわけではない。秘密警察を使って、活動家たちを逮捕したり、一般人のふりをして政府側を支持するような書き込みを行いネット世論の誘導をするなど、それなりの対策は試みられた。ところが、いわゆる「アラブの春」につながる動きの芽を完全に摘み取ることは出来なかった。
「アラブの春」は、ソーシャルメディアを政治運動に活用する一つのモデルとなり、他国や他地域にも同様の動きが広まった。アメリカでの「ウォール街占拠運動」、日本での「原発再稼働反対デモ」、ヨーロッパ各地で発生した一連の抗議活動などは、「アラブの春」と近似したメカニズムが働いていたと考えられる。
このように、その効果の真偽はともかくとして、全世界的にソーシャルメディアを政治運動や社会運動に積極的に活用しようとする動きが高まった。イスラム国によるインターネット利用、ソーシャルメディア利用は、こうした歴史的経緯の延長線上に位置付けられる。
アルカイダから分派して発展したイスラム国は、9・11以降の広報活動、リクルート活動のツールとしてのインターネット戦略を踏まえており、それをソーシャルメディア時代のあり方に応用・適用しながら発展させている。「ブーム」だからという理由で、突然思いついたようにソーシャルメディアをはじめとするインターネット利用を模索し始めたわけではない。「対テロ戦争」を行う側との攻防を含め、過去の蓄積に基づいて、その効果や限界を随時考えながら戦略的に活用していると見るべきである。