右派ポピュリズムのレトリックと物語
このように、多くの右派や極右政党のみならず左派政党の支持者も、1980年代以降のネオリベラルな政治の主流から疎外されつづけ、グローバル化の被害を受けたと考える層や、潜在的被害者の層が支持している。その裾野はたんにしばしば誤解されているように労働者にとどまらず、広範な支持層に訴えるものとなっている。では、この右派ポピュリズムと左派ポピュリズムを分かつものとは何か。ひとつは、本質主義的なものを基礎とするか否か、すなわちおもに自身を構成するアイデンティティーの境界の内側とされるものへの固執と表裏一体なものとして、排外主義や特定の宗教に対する言説を採用するか否かだろう。そしてこれに関連してもうひとつは、社会保障と再分配の財源を共同体の内側の既得権益層に求めるか、それとも共同体のマイノリティーや新たな来訪者たちに求めるかである。
右派ポピュリズムの言説空間は、本質主義的な主張を、まるでイデオロギーや安全保障の問題であるかのように擬装する言説(国際政治における安全保障化〈securitization〉の応用)の構築によって設定可能となる。トランプ大統領とその側近たちがしばしば用いる移民とムスリムと安全保障をわざと結びつける言説や、ドイツのための選択肢やオランダ自由党の党員が好んで主張するように、近代以降の「信教の自由」規範に抵触しないよう、イスラムを宗教として捉えることを回避して「共産主義やファシズムと同じ過激な政治思想であり、イデオロギーの問題」ということにする主張が、この具体例にあたる。
加えてポピュリズムの言説空間に人々を誘い込むのは、事実の裏づけは乏しいものの、つい人々がもっともらしく感じてしまう物語である。物語が境遇の異なる人々の間に等価性をもたらすのだ。さきほど記したような「テロリストのほとんどはムスリムだ」や「外国人が治安を悪くしている」などの「安全保障」にまつわる物語や、「移民が国民の仕事を奪っている」「税金を払っていないマイノリティーのせいでわれわれの社会保障費が削られている」、あるいは「われわれが貧しいのは一握りの(グローバルな)既得権益層のせいだ」といった「経済」の物語などはその典型である。
レトリックはその巧拙によって勝敗が決まる。したがって、さらに高度なレトリックを編み出し普及させていくことによって陣地戦での勝利は可能である。だが、複雑な現実を単純化して感情に訴える物語において、フェイクニュースの蔓延等によって人々が物事の正しさを基準にできない場合、その勝敗は巧拙ではなく快不快によって決まる。
とすれば、右派であれ左派であれポピュリズムがいざなう安易な物語に絡めとられないためには、ひとつには地道にフェイクニュースをファクトチェックによって潰し、正常な判断の材料を人々に提供していくしかない。けれども、そのときにポピュリストが政権を獲得していたならば、することはただひとつだ。それは、現実の否定である。実際にトランプ政権下では、現実を突きつけられたコンウェイ大統領顧問がテレビカメラの前で「もうひとつの事実(alternative fact)」という表現を用いて現実を否定してみせたのだった。
なお、快楽をもたらす矮小化された物語と現実とはつねにズレを生むため、政権獲得をしたポピュリストが直視することを避けてきた現実政治に取り組まねばならなくなる中で、物語の虚構性は否応なく剥ぎ取られることになる。ただし物語が破綻したとき、そのツケを払うのは現実を直視せず放置してきた人々、すなわち民主主義国家におけるわれわれ自身なのである。