2018年3月11日、中国の立法機関・全国人民代表大会において中国憲法の改正案が採択された。その結果、国家主席や副主席の任期が連続して2期を超えてはならないとしてきた従来の規定が削除された。
中国では1990年代以降、一部の過渡的・例外的な時期を除いて、最高指導者が共産党(党総書記)・軍(党中央軍事委員会主席)・国家(国家主席)の3役の長を兼任することが通例である。その任期の根拠となってきたのは、まずは旧憲法上で明文化されていた国家主席の任期期間(2期10年)であり、そして党の最高指導者(党総書記)は2期10年を務めれば引退しなくてはならないとする党内のルールである。
今回の改憲は、まずは従来明文化されてきた国家主席職の任期規定を消滅させることによって、他の党総書記の任期延長をも容易とし(中央軍委主席はもともと任期規定がない)、これまでタブー視されてきた最高指導者の3期目以降の続投の道を開いたものだった。
また、国家監察委員会の新設もうたわれた。これは、1期目の習近平政権が党内で推し進めてきた腐敗の撲滅などを名目とする規律違反の摘発(超法規的な逮捕行為)の範囲が、今後は党員だけではなく、国有企業の経営者や裁判所・公立病院・公立学校など国民生活の隅々にまで幅広く拡大されることを意味する。
すなわち習近平は、理論上は生涯にわたり権力を握り続けることも可能になり、また意に沿わぬ相手をより簡単に葬り去れるようになった。1976年の毛沢東の死去(少なくとも1997年の鄧小平の死去)以来、空前の権力を手にしたとみなしてよい。
「改革派」と思われていた習近平
だが、習近平が2012年11月15日に党総書記に就任(翌年3月14日に第7代国家主席に就任)した時点で、現在の空前の権力集中を予測した者はほとんどいなかった。前国家主席の胡錦濤政権の10年間を通じて、党内政治は胡錦濤らのいわゆる「共青団」系派閥と、前々代国家主席・江沢民らのいわゆる「上海閥」の角逐が目立つとされてきた。ゆえに内外のウォッチャーたちの間では、習近平の選出は、彼が双方の派閥との関係が良好と目されてきたからであって、一種の調整型人事であるとみなす見解も多かった。一見しただけでは、前任者の胡錦濤や江沢民と比較しても、習近平は党内基盤が極めて脆弱な人物のように思われていた。
もっとも習近平への「読み違え」は中国人の知識人も同様だった。政権成立以前には、民間の民主化シンパのみならず体制内の改革派らも含めて、習近平をリベラルな改革者であるとする想像が広く共有されていたのである。海外の亡命民主派中国知識人の間でも、例えば在米ジャーナリストの陳破空をはじめ、習近平による「上からの民主化」に期待する動きが強く見られた。
その一因は習近平本人のバックグラウンドにある。彼の父・習仲勲は文化大革命(1966~76年)前夜の1962年にひとたび失脚、1978年の名誉回復後は深圳(しんせん)経済特区の整備をはじめ、改革開放政策の推進に熱心で、1989年の天安門事件でも学生側に一定の同情を示した改革派の大物であった。
習近平は党総書記に就任する前後、自身の支持基盤を固める目的からか、彼と同じ紅二代(革命元勲の子弟)の党関係者たちのもとを盛んに訪ねている。その中で、往年の改革派の大物・胡耀邦の息子である胡徳平と面会したこともしばしば伝えられていた。ゆえに習近平は父親の政治姿勢を継承するという予測が、中国国内においても生まれたのである。
もっとも、中国の知識人層の習近平政権への期待は、彼の出自だけを理由にしたものではない。当時、中国社会が将来的により大幅に自由化・民主化していくことは、知識人層を中心とした共通認識になっていたからなのだ。
中国社会の自由化の潮流は高まっていた
もともと、江沢民時代(1989~2002年)の末期から胡錦濤時代(2002〜2012年)にかけては、経済発展と対外開放、インターネットの普及などによって、中国のメディアやネット世論がかつてなく力を持った時代だった。
当局によるデザイナーの青年の暴行死をきっかけに世論と報道が沸騰して、都市部の非居住者に対する強制収容制度を改善させた孫志剛事件(2004年)、性的サービスを要求した地元党幹部に抵抗して相手を刺殺した女性に、同情的な世論が集まり減刑がなされた鄧玉嬌事件(2009年)など、ネット世論やメディアの告発によって社会矛盾が見直される動きが強まっていた。その動きは、ネット上で中国鉄道部の事故処理に対する批判が噴出した、2011年の温州市鉄道衝突脱線事故で頂点に達する。
対して胡錦濤政権の対処は、やや腰が引けていた。中国のネット上ではGoogleやTwitterなどの海外サイトへの接続規制や、検索サイト上での単語検索の制限なども進められてはいたが、いっぽうで胡錦濤はネットを通じて国民と対話するパフォーマンスをおこなったり、人民日報傘下のサイト『人民網』上に設けられたTwitterを模したSNS上でアカウントを開設(未使用)するなど、ネット世論の顔色をうかがうような姿勢も目立った。
ネットでは前衛芸術家の艾未未や人権派弁護士の浦志強らが人気を集めた。2011年には中東の民主化運動に呼応する形で、ネットを通じて党体制の転覆を呼びかける中国茉莉花革命も発生(未遂)。ほどなく法学者の許志永らを中心に、数万人規模の市民を動員して体制改革を論議する一種のサークル活動・新公民運動もネットを媒介として広範な広がりを見せた。
この新公民運動は党内の一部の支持を取り付けていた。ほか、経済先進地域の深圳における民主化特区の導入議論がなされたり、総理の温家宝が言論統制の緩和に言及するなど、社会の自由化・民主化は政権内部でも志向されていた方向性だった。経済的に豊かになり個人の権利意識も芽生えた中国において、ネット世論やメディアの活発化は不可逆的に進む潮流であるかに見えた。むしろ、胡錦濤のリーダーシップの欠如ゆえに、本来もっと進んで然るべき改革が停滞しているとすら見られていた。
習近平の政権は、そんな胡錦濤時代を引き継いで2012年に発足した。ゆえに政権成立の時点まで、中国では知識人の間で習近平による改革徹底への強い期待が存在したのである。
メディア統制とポピュリズム
だが、成立後の習近平政権は、巷間の推測とはまったく逆の政治姿勢を打ち出していくこととなる。なかでも興味深いのは、胡錦濤時代にやりたい放題になっていたネット世論とメディアを完璧と言っていいほどに強力に統制してしまった点だろう。
まずネット世論については、国産の大手SNS「微博(ウェイボー)」において、従来のオピニオンリーダーだった「大V(ダーヴイ)」と呼ばれる人気ネットユーザーを弾圧した。従来、「大V」たちは当局に辛口の論評をおこなうことも多く、これに一般のネットユーザーが共鳴する形で中国のネット世論が形作られてきたのだが、そうした当局に不都合な情報の発信源を断ったわけだ。彼ら批判者が消えた後、習近平政権下での中国のネット世論は、当局が雇用した世論誘導担当者によって主導され、政権を礼賛するような、いわゆる「正能量」(プラスのエネルギー)の意見で一色となっている。
また、当局の意向を反映した国内大手IT企業による電脳監視体制も強化された。チャットソフトやSNSの利用にあたり、利用者のIDカード番号や電話番号の登録は従来以上に厳格化されている。中国の国産サービスを利用する限り、ネット上での通信内容のほぼすべてが利用者の身元特定がなされた形で当局に筒抜けとなるようになった。