同年8月19日には、オーストリア国境に近いハンガリーのショプロンで開かれた「汎欧州ピクニック」を名目に集まった約600人の東ドイツ市民が、国境を越えてオーストリアへ亡命した。このニュースは東ドイツ市民の間で瞬く間に広がり、同国政府を激怒させた。亡命者の増加は、東ドイツ国内での民主化要求を強め、同年11月9日のベルリンの壁崩壊につながっていく。ハンガリー政府の決断は、鉄のカーテンに最初のほころびを作ったという意味で極めて大きな意味を持っている。
1989年10月23日には、議会制民主主義に基づくハンガリー共和国が樹立され、共産主義支配は終焉した。
チェコスロバキア、バルト三国にも飛び火
89年11月からはチェコスロバキアの首都プラハやブラチスラバで市民の民主化要求デモが多発。劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルらが創設した市民フォーラムは、共産党政権の退陣を要求した。11月26日に始まった市民フォーラムと政府の交渉の結果、共産党を第一党とすることを定める条項が憲法から削除され、同国での共産主義支配は終わった。12月29日に同国議会はハヴェルを大統領に選出し、翌年3月29日には議会制民主主義に基づくチェコ・スロバキア連邦共和国が誕生した。(同国は93年1月1日に分裂して2つの独立国となった)
またブルガリアでも89年11月から民主化を求める市民のデモが始まり、91年の選挙で共産主義政権を失脚させた。さらに第二次世界大戦後ソ連に強制的に編入されていたバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)でも89年8月23日に約200万人の市民が手をつないで全長600キロメートルの「人間の鎖」を形成し、独立と民主化を要求した。これらの国々でも市民のデモが多発して、共産党支配を規定する条項が憲法から削除された。リトアニアは90年3月11日、エストニアは91年8月20日、ラトビアは翌21日にソ連からの独立を宣言した。
東欧革命ではほとんどの国で流血の事態が避けられたが、ルーマニアでは激しい武力衝突が起きた。同国でも80年代には食糧不足が深刻化し、市民の不満が高まった。1989年12月に西部の都市ティミショアラで、チャウシェスク大統領による独裁政権に対する抗議デモが始まったが、首都ブカレストから派遣された治安部隊が発砲して市民の間に多数の死傷者が出た。暴動は他の都市にも拡大し、ヘリコプターで首都から脱出したチャウシェスク夫妻は、逃亡中に革命勢力に逮捕されて即決裁判で死刑宣告を受けた。両手を後ろ手に縛られた夫妻は兵営の中庭で壁の前に立たされて自動小銃の一斉射撃を受け、処刑された。裁判と処刑の一部始終は、ビデオカメラで撮影された。ルーマニアでの治安部隊と革命勢力の間の戦闘による死者は、約1000人にのぼると推定されている。
東欧革命を可能にしたゴルバチョフ
東欧革命が成功した理由の一つは、東側陣営の盟主だったソ連の最高指導者がミハイル・ゴルバチョフという改革者だったことである。特に各国に駐留していたソ連軍が、革命の鎮圧命令を受けなかったことについては、ゴルバチョフの功績は大きい。
85年から91年までソ連共産党中央委員会書記長を務めたゴルバチョフは、グラスノスチ(情報の公開)とペレストロイカ(改革)を旗印に掲げて、共産主義体制の変革と強化を試みた。彼はソ連が米国に比べて経済や科学技術などで大幅に遅れており、変革によって米国との差を縮める必要があると痛感していた。彼は対外政策や軍事政策でも大きな変化を生んだ。アフガニスタンから軍を撤退させたり、87年に米国との間で中距離核ミサイル禁止条約に調印するなど、東西対立の緩和に努めた。
特に重要なのは、ゴルバチョフがソ連の伝統的な外交路線だったブレジネフ・ドクトリンを放棄したことである。68年11月12日に、ソ連の最高指導者だったレオニード・ブレジネフは、ポーランドで行った演説の中で「東欧で共産主義体制が脅威にさらされた時には、軍事同盟ワルシャワ条約機構の盟主であるソ連が軍事介入する権利を持つ」と主張した。つまり彼は、東欧の共産主義国の主権が制限されていること、これらの国々の政府と国民はソ連に従属する義務があることを強調したのだ。
実際ソ連は、東欧諸国での暴動をしばしば武力で鎮圧した。53年の東ドイツでの暴動、56年のハンガリー動乱、68年の「プラハの春」暴動では、ソ連やワルシャワ条約機構軍の戦車部隊が鎮圧のために投入され、市民に多数の死傷者を出した。
もしも89年にソ連の最高指導者がブレジネフ・ドクトリンを堅持していたら、やはりポーランドや東ドイツなどでソ連軍が投入されて、体制変革の芽を武力で摘み取っていたはずだ。
ゴルバチョフはいわゆる「新思考外交」に基づいて、このブレジネフ・ドクトリンと訣別し、「不介入主義」を表明した。それどころかゴルバチョフは、東欧諸国の政府にも体制改革を求め、一党支配に慣れ切った指導者たちを当惑させた。このことは東欧の改革勢力を勇気づけた。
私は89年の8月にポーランドで取材していたが、市民の間でのゴルバチョフに対する人気は非常に高かった。彼らは自国の共産主義政権を軽蔑し、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチに大きな期待を抱いていた。私は、東欧諸国の共産主義支配の岩盤の底で微かな地震が起き始めていることを、肌身で感じた。
89年11月9日の夜に東ドイツ市民がベルリンの壁に押し寄せて国境を突破した時も、同市の約30キロの所に駐屯していたソ連軍の戦車部隊に出動命令は下らなかった。東西ドイツの統一が成功したのも、ゴルバチョフがソ連の最高指導者だったからである。ゴルバチョフは、東欧革命を成功させた最大の貢献者の一人である。