1989年は、世界史の中で特筆するべき年だ。ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア(当時)などで立て続けに共産主義政権が崩壊し、民主化が始まったからだ。
革命は東ドイツにも飛び火して、同年11月9日に東西ベルリンを分割していた壁を崩壊させ、翌年のドイツ統一への道を開いた。91年にはソ連自体も解体された。
つまりこの民主革命は、第二次世界大戦終結以来続いていたソ連による支配と抑圧から東欧諸国を解放した。第二次世界大戦中に米英ソの首脳がヤルタ・ポツダム両会談(ともに45年)を通じて築いた、欧州の東西分割体制に終止符が打たれた年でもある。
その後東欧諸国は欧州連合(EU)や、米国を盟主とする軍事同盟・北大西洋条約機構(NATO)に次々に加盟した。彼らは、半世紀近いソ連による支配を経験したことから、将来ロシアが再び領土拡大などの野望を抱いた時に身を守るためには、西側の国際機関に属することが不可欠だと考えたのだ。これは鉄のカーテンの向こう側に強制的に閉じ込められていた東欧諸国の、「欧州への帰還」だった。西欧諸国にとって、欧州の分断終結と新たな市場の誕生は、冷戦終結がもたらした平和の配当だった。
だが歴史の振り子は真ん中では止まらず、反対側に大きく振れる。今では、当時民主化をめざしたはずの東欧諸国の多くで右派ポピュリスト政党が権力の座に就き、民主主義の根幹である司法の独立や報道の自由をめぐって、EUや西欧諸国と鋭く対立している。東欧諸国の「造反」は、90年代に西欧諸国が全く想定していない事態だった。
またEU拡大は、欧州内部に新たな亀裂を生んだ。たとえばEUが保障した移動の自由を利用して、ポーランドなど東欧諸国の多数の市民が英国に移住した。しかしこの変化は英国市民の間でEUに対する反感を強め、2016年の国民投票で離脱賛成派が勝つ原因の一つとなった。つまりBREXITの遠因の一つは、EUの東方拡大にあるのだ。
政治思想と価値観の違いをめぐる西欧・東欧間の分断は今なお続いている。
東欧革命の先駆者ポーランド
まずは、30年前、ソ連圏の東欧諸国で何が起こったのかを振り返る。東欧革命の先鞭をつけたのは、ポーランドだった。この国では80年代後半に入ってから政府の経済政策の失敗により深刻なインフレや食料不足が起き、一部の労働者がストライキを行うなど混乱が続いていた。
この難局を打開するために、1989年2月から4月にかけて政府幹部と自主管理労働組合「連帯」、教会関係者はワルシャワで円卓会議を開催。結果、81年以来政府によって弾圧され、82年からは非合法化されていた連帯が、89年4月に合法化された。同年6月4日と18日には、第二次世界大戦後、東欧の社会主義圏で初めて部分的な自由選挙が実施され、連帯の政治組織「連帯市民委員会」が有権者から圧倒的な支持を得て勝利した。
89年8月24日には、議会下院(セイム)が連帯の顧問だったジャーナリスト、タデウシュ・マゾヴィエツキを首相に選出。彼は9月13日に政権を樹立する。第二次世界大戦後、東欧の社会主義国で共産党に属さない人物が首相の座に就いたのは初めてのことである。
マゾヴィエツキ政権はポーランド人民共和国という国名をポーランド共和国に改名、第3共和制を発布した。第3共和制とは、1569年から1795年まで続いたポーランド・リトアニア共和国(第1共和制)と、1918年から39年まで続いたポーランド共和国(第2共和制)に続く名称である。帝政ロシアやソ連、ナチスドイツなど他民族支配の辛酸をなめ、しばしば地図から抹消されたポーランドは、89年12月の憲法改正によって黄金の冠を戴く白い鷲の国章を再び導入し、民主的な独立国として復活したのである。
ポーランドの民主化では、連帯の役割を無視できない。この組合はグダンスクのレーニン造船所で、労働者たちが80年9月22日に創設した。彼らは食肉などの値段の引き上げに抗議して、ストライキを開始した。当時共産主義圏では労働者のストライキはおろか、自主的な組合の創設も禁止されていた。
グダンスクのストライキは、ポーランド全土に拡大した。レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)が率いる連帯の組合員は約950万人に増加し、共産党(ポーランド統一労働者党)の党員の約30%が加盟するに至った。
連帯の政治的な影響力の拡大を恐れたポーランド政府は、81年12月13日に戒厳令を発布して連帯幹部らを逮捕し、翌年10月にこの組合の活動を禁止した。だが組合員たちは民主化への希望を捨てずに、地下に潜って活動を続けた。共産主義政権の崩壊後、ヴァウェンサは政治活動に復帰し、90年から5年間にわたり同国の大統領を務めた。
つまり89年のポーランド民主革命の基礎を築いたのは、9年前にグダンスクで労働者たちが連帯の創設という形で行った、共産主義支配に対する異議申し立てだった。ソ連の支配体制に最初の亀裂を生じさせたポーランド人たちの勇気は、欧州の歴史に永遠に刻まれるだろう。
鉄のカーテンに穴を開けたハンガリー
ハンガリーでも80年代後半には経済状態が悪化。56年からその座に就き、2度にわたって首相を務めたこともある社会主義労働者党書記長ヤーノシュ・カーダールが88年5月に健康上の理由で辞任して以降、民主化の動きが加速した。
特に重要なのは、ハンガリーが西側への出国禁止を撤廃したことだ。同国は89年5月にオーストリアとの国境を封鎖していた鉄条網などの撤去を開始した。同年6月27日には、ハンガリーのジュラ・ホルン外務大臣とオーストリアのアロイス・モック外相が肩を並べて両国間の国境で鉄条網を切断する模様を、西側の記者団に撮影させた。この映像はハンガリーの対外姿勢の緩和を象徴するものだった。
当時東ドイツなど社会主義国の市民は、ハンガリーやチェコなど共産主義圏の国へは旅行できたが、西ドイツなど西側の国への旅行を原則として禁じられていた。社会主義国の国境警備兵たちは、西側への亡命を試みる者を銃撃する許可も与えられていた。ベルリンの壁など東西ドイツ間の国境を許可なく越えようとして射殺された市民の数は、200人~300人と推定されている。
だが89年にハンガリーが国境を事実上開放したため、同国経由でオーストリアへ脱出する東ドイツ市民が急増した。