人々は「光州5.18」40周年をどう受け止めているのか。18日の午前、文在寅大統領の演説には何度も「5月の精神」という言葉が登場した。それは「民主主義」「正義の精神」「勇気の源泉」と表現された。
筆者が乗ったタクシー運転手の崔さん(69)は、「当時、タクシーで負傷者十数人を病院まで運んだ経験がある。国民の一人として手伝えたことは誇らしい」と述べた。別の運転手の林さん(64)は当時軍隊にいたものの「光州にいたら必ず参加しただろう」と言い切った。
一方、犠牲者が埋葬されている「5.18旧墓地」で出会った朴さん(64)夫婦は「こういう人たちがいたからこそ今がある。私たちは負債を背負っている。ありがたく、申し訳ない」と立ち並ぶ墓を前に頭を垂れた。ソウルから来たというクォン・ソンジェさん(31)は「光州の精神を記念しようと、ソウルから一人で来た。私たちは今も歴史の中に生きていると思う」とやはり神妙な面持ちで語った。
墓地から戻る際、見慣れた顔に出会った。大統領が出席したこの日の式典で司会を務めていた有名タレントの金済東(キム・ジェドン、46)氏だ。声をかけて「光州5.18」40周年の所感を聞いてみた。「光州の人々に負い目がある。国が軍を投入しデモを鎮圧したのは釜馬抗争の際にもあった。光州が立ち上がらなければ軍事独裁がもう40年続いていたかもしれない。今日の司会をしながらも申し訳ない気持ちだった」。
そして新たに造成された国立の新墓地で会ったユ・ミンジさん(60)と娘さんの二人組も「光州の人たちに申し訳ない。ありがたい。『イムのための行進曲』を聞くたびに胸が締め付けられ、涙が出る」。目を伏せる傍らには、たくさんの献花に囲まれた尹祥源の墓が静かにたっていた。光州そして韓国の民主化運動のテーマソングのこの歌は、1981年に作られた。尹祥源と、同じ「夜学」グループで活動し1978年に練炭事故で亡くなった朴琪順(パク・キスン)さんの二人を追悼する霊魂結婚式(生者と死者が結婚する儀式)のために作られたものだ。
光州に対する負債、負い目。この気持ちはなかなか理解するのが難しいかもしれないが、「光州5.18」に対する韓国市民の最大公約数的に抱いている感情であると考えてよい。
40年前の当時、光州は孤立していた。全南道庁に立てこもった市民軍は、ソウルなどで共に市民が立ち上がっていくことを待ちわびながら、全斗煥による権力簒奪(さんだつ)から国を守ろうと未来を信じて死んでいった。この犠牲的精神が同時代人をその後大きく動かしたということだ。
「『私だったらあの日、道庁に残ることができたか?』。その答えがなんであろうと、自身に聞く時間を持ったならば、私たちはあの日の犠牲者に応えたことになります」という今年5月18日の文在寅大統領の演説はそうした想いを代弁していると言える。文大統領は昨年の式典で「光州の人々に申し訳ない」と述べる部分で、目に涙をたたえ10秒以上声を詰まらせもした。
(8)残された課題
「光州5.18は歴史になる前に神話になってしまった」。5月26日、李氏は40年の意味を尋ねる筆者にこう答えた。
この言葉は重い。李氏は「真相究明がなされてこそ、歴史になり得るのだが、それがないままその意義だけが語られている」と述べた。1980年にあった光州5.18の真相究明は、大統領直接選挙を勝ち取った1987年の民主化まで待たなければならなかった。
民主化以降初の1987年の大統領選挙は三つ巴となり、民主化陣営への票が割れたことで全斗煥の忠実な腹心だった盧泰愚(ノ・テウ)が当選する皮肉な結果となった。だが、翌1988年の総選挙で市民は野党を勝たせ、ついに光州5.18に関する聴聞会が開かれることとなった。これにより、当時の状況が多少は明らかになったものの、責任の追及には至らなかった。その後、全斗煥をはじめ当時の戒厳軍に関わった者たちが起訴されたが、これもまた最終的には不起訴に終わった。
しかし、光州5.18の遺族や関係者をはじめとする韓国市民は諦めなかった。1995年に全国的な運動を繰り広げ、ついに当時の金泳三大統領は「5.18特別法」の制定に舵を切る。これにより起訴された全斗煥・盧泰愚への裁判が続き、1997年4月に大法院(最高裁判所)で判決が確定する。全斗煥は一審での死刑から無期懲役となり追徴金2205億ウォン(約200億円)、盧泰愚には懲役17年、追徴金2628億ウォン(約240億円)が下された。罪状は1979年12月から5月17日にかけての反乱および内乱の首魁(しゅかい)、5月27日の内乱目的殺人罪などであった。
大法院は1997年4月18日「12.12事件は明白な軍事反乱であり、5.18は内乱および内乱目的のための殺人行為」と判決を下した。