「光州事件」を超えて〜韓国民主化の中で40年生き続けた光州5.18を知る(中)から続く 【(上)はこちら】
(6)光州が残したもの
「市民の皆さん、今、戒厳軍が押し寄せています。愛する私たちの兄弟、姉妹たちが戒厳軍の銃剣により死に向かっています。私たちは皆、戒厳軍と最後まで闘いましょう。私たちは光州を死守します。皆さん、私たちを忘れないでください。私たちは最後まで闘います。市民の皆さん、戒厳軍が押し寄せています」
戒厳軍が攻撃を開始する直前の(1980年5月)27日午前3時50分、静寂の中、全南道庁屋上のスピーカーから流れた朴泳順(パク・ヨンスン)のこの訴えを、少なくない光州市民が耳にした。全南道庁の制圧後、光州は早くも日常に戻ったが、27日晩にも全南大学の付近で知人の家に本を借りに行く途中だった15歳の少女が戒厳軍により射殺された。また、27日までに殺害された市民軍の遺体が安置された道庁前の尚武館への弔問の列は、長く伸びた。
5月17日から7月末まで、光州5.18関連で逮捕された人が2699人に及んだ。この年の8月に大統領となった全斗煥は、実際には何の関連性もなかった光州5.18を、内乱陰謀を企てた金大中から活動資金を受け取った暴徒たちによるものにしようとした。このシナリオに沿って、関連者を捜査した。だが実際は、激しい拷問により無理やり自供を引き出すというものだった。
404人が「戒厳普通軍法会」と名付けられた軍法会議にかけられて、弁護人もないまま審理が行われ、一審で255人が有罪となった。その後、二審、大法院(最高裁判所)と裁判は続き、翌81年の3月31日に刑が確定した。3人が死刑判決を受けたが、その3日後に特別減刑が行われ、死刑は無期懲役になった。そして同じ年の12月24日、クリスマス特別赦免が行われ、全員が刑執行停止措置を受け釈放された。
光州の人々は「5.18」を忘れたことはなかった。行方不明者の家族や有志たちは戒厳軍により市内のあちこちに埋められていた遺体を掘り起こし、郊外の望月洞(マンウォルトン)に墓地を造り、毎年死者を悼んだ。一方、結果的に光州を孤立させることとなった全国の大学生たちは、真相を知ることで大きなショックを受けた。80年5月30日には西江大学の金義気(キム・ウィギ)が光州の真相究明を求めてビルの6階から飛び降りた。6月9日には労働者のキム・ジョンテが「光州市民抗争の魂を慰労する」として焼身自殺した。
文在寅大統領は2017年8月、映画『タクシー運転手』の試写会に参加した後、ドイツ公共放送ARDのインタビューを受けた。その中で「光州を知らせることが、そのまま民主化運動だった。私たちは光州に負債がある。光州があのようにやられている間、私たちは知ることもできず、防ぐこともできず、何もしてあげられなかった」。
学生たちのこうした想いの矛先は全斗煥政権に激しく向けられ、1987年6月の「6月抗争」と呼ばれた民主化運動につながっていく。
真実は隠せなかった。前出の李在儀氏が書き、当局の取り調べを見越して著名作家の黄晳暎(ファン・ソギョン)の名前で1985年に出版された『死を超えて、時代の暗闇を超えて』は初版2万部がまるまる当局に没収される憂き目にあったが、口コミで広がり、コピー版などが出回り多くの学生を「覚醒」させた。「一時期は、当局の仕事が学生街の本屋でこの本を買う者を調べ、逮捕することだった」と李在儀氏はインタビューで初めて笑った。数十万の市民がこの本を手に取ったとされる。
光州5.18は、大統領直接選挙制を求める1987年6月をピークとする民主化運動の随所に影響を与えた。同年1月、民主化運動を行っていたソウル大学生、朴鐘哲(パク・ジョンチョル)氏が韓国内務部・治安本部の拷問により死亡する事件が起きた。だが当局は当初これを事故と発表し、後に加害があったと認めるが、その実態を矮小化した。しかし良心ある関係者の告白により、過酷な水拷問による死亡であることが明らかにされた。これを「天主教正義具現全国司祭団」が暴露したのは、1987年5月18日の「光州5.18」7周忌追悼ミサの場であった。
また当時、全斗煥大統領は全国に広まるデモに対し軍隊を投入することを計画したが、これには軍内から大きな反発の声が上がった。全大統領はあくまで「脅し」のためだったとしたが、空輸旅団が所属する特殊戦司令官だった閔丙敦(ミン・ビョンドン)将軍は実際に軍が投入される場合、大統領官邸の制圧を考えていたとされる。それほど、光州での過剰な鎮圧は軍の中でも負担になっていた。
また、学生たちも一層勇敢になった。李在儀氏は(市民の間に)「催涙弾程度では引き下がらない気持ちというのが、光州から生まれた。もっと厳しいところで光州の人は耐えてきたと思うことが、デモに参加する学生の気持ちを振るい立たせる役割を果たした」とこれを振り返った。さらに80年当時、全斗煥軍部による鎮圧を承認した米国に対する反感も高まった。80年代には全国の米国文化院が放火され、外交問題に発展した。「民主主義国家を標榜しながら、光州を見殺しにした」。1980年に醸成された反米意識は、今も韓国社会でくすぶっている。
ソウル大の崔教授は前掲の『五月の社会科学』でずばり、こう述べている。
「(80年5月当時)もし多数決の結果により武器を置いて道庁を戒厳軍に明け渡していたら、(87年の)6月抗争はなかっただろうし、今もなお(全斗煥による)『第五共和国』の治下にあっただろう」
(7)光州5.18、40年を歩く
今も光州5.18は韓国の市民の中に生き続けている。40周年の2020年5月17日、18日と筆者は光州市に滞在した。40周年という節目の年を迎えたものの新型コロナウイルス感染症拡大のため、毎年行われていた全南道庁前の錦南路を埋める前夜祭も中止となった。人出は多くなかったが、光州は街のあちこちに5.18の痕跡や史跡、そして展示がある。