光州市民たちの大規模なデモは「主権者であり憲法制定権力である国民として、新軍部側の国憲紊乱行為に立ち向かい憲法守護のために結集したもの」とされ、被告(全斗煥や盧泰愚)がこれを暴力で粉砕したことを内乱行為とした。これにより「光州事態」は「光州5.18民主化運動」となり、光州の市民軍や尹祥源は歴史の勝利者となった。
だがその真相がすべて解明されたわけではない。特に5月20日の光州駅前、21日の全南道庁前での発砲命令を誰が下したのかというのは未だに一つの焦点となっている。当時の状況から、命令を下したのは全斗煥や空輸部隊を率いた鄭鎬溶(チョン・ホヨン)特戦司令官などと見られているが、これが明らかになった場合、内乱目的殺人罪の適用範囲が広がることになり、当時の新軍部による明確な市民の殺害意図が証明されることになる。
1997年12月、大統領選挙に当選した金大中の頼みにより、当時の金泳三大統領は収監されていた全斗煥、盧泰愚の特赦を決定する。理由は「社会を統合するため」であった。当時、この措置に韓国市民の8割が反対したが、「光州内乱陰謀」により全斗煥政権から死刑判決を受けていたのにもかかわらず、金大中は譲らなかった。
しかし、全斗煥氏は2019年12月12日、ソウル市内の中華料理店で豪華料理を側近と楽しんだ。1979年のクーデターから40年を祝う目的とされた。この場には鄭鎬溶氏(前出)も同席し「全斗煥は全く反省していない」という印象を社会に与えた。
今年5月、筆者は光州で3人の市民から「特赦当時、全斗煥には謝罪をさせるべきだった」という声を聞いた。李在儀氏もまた「金大中には愛憎がある」と短く答えた。その上で「早く和合しては、という声があるのは知っている。だが真の和合とは、真相究明と反省の上にある。それがないと容赦はできない」と語気を強めた。2020年5月、政府の真相究明委員会が発足した。今回の調査が「最後のチャンス」になると期待されている。
(9)未完の歴史
光州は難しい問題ではある。光州の分析で名高い崔丁云(チェ・ジョンウン)教授の言うように「民主」「民族」「民衆」と関わる出来事であるからだ。民主主義を望み、米国の全斗煥支持に怒り、社会で虐げられた人々が武器を取った、韓国社会を象徴するような10日間だった。これをどう捉えるのか、という点は今なお進行形の問いと言える。
新型コロナウイルス感染症対策の成功を「K−防疫」と名付け世界に輸出しようとするように、「光州5.18」40周年を迎え「K-民主主義」を広めようという声もある。確かに「光州5.18」はこれまで、アジアの民主主義に少なくない影響を与えてきた。最近では香港で行われるデモで「イムのための行進曲」が歌われ、デモのリーダー的存在の一人、ジョシュア・ウォンも「香港は光州だ」と韓国の市民社会に支持を求め、5.18に関連する諸団体はこれに応えている。
だが、同じ民族である北朝鮮の民主化運動となると、トーンは一気に下がる。これは韓国の進歩派にとって未だ先に進むことのできない話題である。今から十数年前、筆者がソウルで人権NGOを主宰していた際、進歩派のNGOの集まりで、ある著名活動家が「北朝鮮の民衆が立ち上がるなら応援する」と言い放ったことが忘れられない。5.18当時の米国の態度と五十歩百歩である。
一方、「光州5.18」に対し、「保革対立」という立場から論じたがる日本メディアの報道はいただけないと筆者は思う。「和解がない」という問題意識からの謎解きなのだろうが、これは「光州5.18」に対する理解の不足と言う他ない。和解を妨げているのは過去の罪を認めず、当時の記憶・記録を頑なに守り続ける旧「新軍部」であり、これ以外の8割以上の市民は圧倒的に「光州5.18」の価値を認め、真相究明を支持している。
また、韓国の一部極右ユーチューバーや脱北者が主張する「秘密裏に浸透した北朝鮮の特殊部隊が暴動を巻き起こした」という話も全くのデタラメだ。過去、7度にわたる韓国政府による調査の結果でもそのような証拠は全くない。
(10)おわりに
筆者は最近、韓国の事柄を書く際に、日本国内でその出来事が簡単に評価され過ぎているきらいがあると感じている。
何が正しかったのかを問う話ではない。ただ、あの時に光州で市民軍が闘ったことで韓国の民主化は早まり「光州5.18」は今なお韓国市民が立ち戻れる民主主義の墓標になっているということだ。
韓国の現代史は日本のそれとは大きく異なる。日本には戦後、民族の分断や戦争も、軍事独裁もなかった。100万人が集まるデモが起きたこともない。2020年の韓国は、表面上は日本と変わらない社会に見えるが、簡単に同じ線上で比較できないということだ。
では韓国の現代史から学べることは何か。それは飽くなき社会的正義の追求であるというのが筆者の意見だ。
現在の韓国がすべて良いというわけではない。問題は山積している。40年前の光州で語られた「民主」「民族」「民衆」の「三民」のうち、「民主」の部分ではつい3年前まで権威主義的な政権が9年続き「ろうそくデモ」を巻き起こした。「民族」では、南北対立は核問題まで絡まり今も一寸先は闇のままで、米国の前に民族の自主もない。「民衆」では社会の格差はより広まり、階級社会とさえ言われるほど生存するための過酷さが増している。
だが、社会的正義を求める姿勢を維持し続ける限り社会を更新しようという力は絶えず生まれる。「光州5.18」は今なおその尽きない泉の役割を果たしているのである。昨年以降、目立つようになった日韓の社会の差異も、社会的正義への確信に基づく社会の絶え間ない更新への意欲という、歴史的な背景から生まれている。これを知らずに韓国との関係を見直すことはできないだろう。
また2020年の今、日本には「国家の暴力と市民との関係性」において「光州5.18」を捉え直す必要があると思う。目に見える暴力は、目に見えない暴力の蓄積の結果として表れるものだからだ。
参考書籍:
・死を超えて、時代の暗闇を超えて(初版1985年、改訂版2017年、チャンビ)
・韓国民衆抗争踏査記(2020年、ネイルルヨヌンチェク)
・五月の社会科学(初版1999年、改訂版2012年、五月の春)
・あなたと私の5.18(2019年、五月の春)
※書名の邦訳表記および引用の翻訳は筆者による。