特に2011年3月に勃発したシリア内戦では、アル・キバール原子炉があった地域は一時テロ民兵組織イスラム国(IS)によって制圧された。このため欧米の安全保障専門家の間では、「もしもアル・キバール原子炉が破壊されずに稼働していたら、ISが放射性物質や核兵器を入手し、西側諸国に対するテロ攻撃に使う恐れもあった」と指摘されている。
イスラエルはイランを攻撃するか?
さて問題は、イランが核兵器開発を行っているという疑惑が深まる中、イスラエルが再びベギン・ドクトリンを発動するかである。イスラエルのネタニヤフ政権は、米(オバマ政権)、英、仏、独、中、露の6カ国が2015年7月14日にイラン政府との間で締結した核合意を強く批判してきた。
この合意はイランに対してウランを濃縮するための遠心分離機の数を大幅に削減することを義務付けるなど、同国の核技術開発を大幅に遅らせることを目的とするものだ。しかしイスラエルは「イランは核合意の裏で、核兵器の開発を続けている」と主張してきた。このためトランプ大統領が核合意からの撤退とイランへの経済制裁の強化を発表したことを、ネタニヤフ政権は高く評価している。
ネタニヤフは2005年に野党指導者だった時、「イランに関しては、かつてベギンがイラクに対して取った大胆で勇気のある行動を見習うつもりだ」と発言したことがある。だが彼は首相に就任して以降、ベギン・ドクトリンを直ちに発動することには慎重な構えを見せて、むしろイランに対する圧力は、米国が先頭に立って高めるべきだという立場を打ち出している。
このためイスラエルは直接的な軍事攻撃ではなく、諜報機関を使った「非軍事的手段」でイランの核開発計画を遅らせようとしてきた。たとえば、2010年から2012年にイランの核科学者4人が暗殺されているが、イラン政府はこの背景にイスラエルの諜報機関モサドがいると推測している。
また2010年6月にはイランの核施設で使われているコンピューターがウイルスに汚染されたことで、ウラン濃縮施設や原子力発電所の操業に一時大きな支障が出た。ニューヨークタイムズは2010年9月30日の紙面で、このウイルスは、イスラエルの電子諜報部隊である「8200部隊」と米国の諜報機関が共同で開発し、イランの核開発計画を遅らせるために投入したものであると報じた。
はるかに困難なイラン空爆
ロイター通信は、2011年11月7日の記事で「イランは、イラクやシリアよりもイスラエルから遠い上に国土も広大なので、攻撃するのは難しい。さらにイランは、イスラエルによるイラクとシリアの原子炉攻撃から教訓を得て、核施設を多くの地域に分散させ、堅固な防御態勢を取っている。イスラエル空軍はピンポイント的な奇襲攻撃は得意だが、イランの核施設を使用不能にするには、長期間にわたる空爆が必要となる」として、イスラエルがイランにベギン・ドクトリンをそのまま適用するのは難しいという見方を打ち出している。また、イスラエル国防省の高官の談話としてこの見方を裏付ける言葉も掲載している。
さらにイランの革命防衛隊は、シリアやレバノンなどイスラエルの周辺国に軍事拠点を設けている。
特にイランに支援されているシーア派民兵組織「ヒズボラ(神の党)」は、レバノン南部に10万発を超えるミサイルを備蓄し、イスラエルの主要都市に照準を合わせている。イスラエルがイランの核施設への攻撃を始めた場合、イランの指令を受けたヒズボラがイスラエル攻撃を断行するかもしれない。イスラエルはテルアビブやエルサレムの周辺に独自に開発した迎撃ミサイルシステム「アイアン・ドーム」を配備しているが、隣国レバノンから多数の弾道ミサイルが発射された場合、着弾を完全に防ぐことは困難と見られている。このためベギン・ドクトリンが発動された場合、相当の犠牲を強いられる恐れがある。
イスラエル空軍の元少将で、テルアビブ大学安全保障研究センター(INSS)のアモス・ヤドリン所長は2018年3月にベギン・ドクトリンに関する論文を発表イラク、シリアへの過去の先制攻撃を支持。そのうえで、イラン攻撃は過去の奇襲攻撃に比べてはるかに困難になると述べ、ベギン・ドクトリンがこの先、永遠に通用するわけではないと指摘している。
ヤドリンは1973年のヨム・キップール戦争などで戦闘機を操縦し、合計5000時間の飛行を経験した他、米国駐在武官やイスラエル国防軍の軍事諜報機関の責任者も務めた。歴戦の元少将の警鐘は、ネタニヤフ政権の安全保障担当者の胸にも重く響いたに違いない。
イスラエルと米国の綱引き
もう一つの重要なファクターは、米国政府の出方だ。ドイツ政府の外交・安全保障問題に関する諮問機関である「科学政治財団(SWP)」のペーター・ルドルフ研究員は、2012年6月に発表した論文の中で、「米国は原則としてイランの核武装を阻止したいという姿勢を持っている」と強調。彼はその証拠として、同年1月にオバマ大統領(当時)が行った演説を挙げる。オバマはこの中で「米国はイランが核兵器を保有することを絶対に阻む決意だ。そのためには、どのような選択肢も除外しない」と述べ、軍事行動というオプションもあり得るという姿勢を明らかにした。
さらにオバマは同年3月にネタニヤフとワシントンで会談した際にも、同様のことを述べている。これらの発言の狙いは、「対イラン政策では米国が主導権を握る。必要とあれば武力も使う」と強調することで、イスラエルが単独でイラン攻撃に踏み切らないようにすることだった。オバマはこの年の11月に大統領選挙を控え、選挙前にイスラエルがイランを攻撃し、中東に戦火が拡大することを避けようとしたのだ。それどころか、オバマはその年の夏にイランとの間で核合意をまとめあげ、同国の核開発にブレーキをかけようとした。これによりイスラエルにとっては、予防攻撃のための理由づけが更に難しくなった。国際世論は、合意を受け入れたイランに対する同情が強まり、逆にイランへの警戒心を煽るイスラエルのイメージが悪化した。ネタニヤフがオバマを蛇蝎のように嫌うのは、そのためだ。
ベギン・ドクトリンは放棄されたわけではない
しかしオバマが退いた後、トランプは2018年、核合意からの撤退を表明。イランの態度も硬化し、IAEAは今年(2019年)7月8日、「イランが濃縮度を引き上げ、核合意で定められたウラン235の濃縮度の上限である3.67%を突破した」と発表した。イラン原子力機関のスポークスマンは、「我々は20%の濃縮度をめざしているわけではない。しかし必要となれば、さらに濃縮度を引き上げるし、我々を妨げるものはない」と述べ、もはや核合意には拘束されていないという態度を打ち出した。2015年の核合意は、死に体となったも同然である。
核兵器の製造にはウラン235の濃縮度を90%に高めることが必要であり、現在の濃縮度はそれよりもはるかに低い。しかしイランが米国の核合意撤退や経済制裁の強化に反発して、濃縮度に関する核合意の内容に違反しはじめたことは大きな問題である。イスラエル政府の危機感を高めることにもなり、現在ネタニヤフ政権は、様々なオプションの長所と短所を必死で検討しているはずだ。
ただし、トランプ政権はイスラエルを守るために自国から遠く離れたイランと戦争状態に入ることについては、躊躇するだろう。2020年に大統領選挙を控え、トランプもオバマ同様、選挙前に中東の火薬庫に火がつき、米軍が介入せざるを得なくなるような事態は避けようとするに違いない。つまりトランプは、ネタニヤフに対してベギン・ドクトリンの3度目の発動を見合わせるよう働きかけているものと見られる。
イスラエルがイランに対して直ちにベギン・ドクトリンを発動する可能性は低い。しかし同国はこのドクトリンを捨て去ったわけではない。イランが核兵器製造の道を本格的に歩み始めた場合、イスラエルが高い代償を覚悟で軍事行動に踏み切る可能性はゼロとは言い切れない。(文中敬称略)