米国のトランプ政権が2018年5月にイランとの核合意(JCPOA=Joint Comprehensive Plan of Action)からの撤退を表明して以来、欧米諸国とイランとの間の緊張が高まっている。2019年に入ってから日本船籍を含む数隻のタンカーがホルムズ海峡で何者かによって攻撃されて損傷したが、米国政府は「イランの革命防衛隊が攻撃した」と主張。トランプ大統領は報復措置として、2019年6月21日にイランに対する空爆や巡航ミサイルによる攻撃を実施する予定だったが、攻撃開始10分前に命令を撤回したと報じられている。さらに英国とイランは互いのタンカーを拿捕しあい、2019年8月末の時点で両国間の交渉は膠着状態にある。
中東で一触即発の緊張が続く中、欧米の安全保障関係者の間でささやかれている問いがある。それは「イスラエルは過去にイラクとシリアに対して行ったように、イランの核施設を爆撃するだろうか?」というものだ。
「オペラ作戦」でイラク原子炉を破壊
この問いが発せられる背景には、イスラエル政府が1980年代から保持している抑止戦略がある。それは、「イスラエルの敵国が核兵器を保有しようとしている場合には、イスラエルは先制攻撃によって核保有能力を破壊する」という原則に基づいている。この戦略はしばしばベギン・ドクトリンと呼ばれる。1977年から1983年までイスラエルの首相だったメナハム・ベギン(1913~1992年)の名前にちなんでいる。保守党(リクード)右派に属したベギンは先制攻撃を実行し、この原則をイスラエルの国防戦略の柱とした政治家である。
1981年6月7日、イスラエル空軍の8機のF16型戦闘爆撃機と6機のF15型戦闘機が、同国南部のエツィオン空軍基地を飛び立った。全機が、重さ925キロのマーク84型爆弾を2発ずつ搭載している。
彼らの目標はイラク・バグダッド郊外で建設されていた原子炉である。イスラエルからイラクへ飛ぶには、他国の領空を通らなくてはならない。イスラエル軍のパイロットたちは、サウジアラビアの領空を通過する際に、サウジ空軍の無線の周波数を使いアラビア語で交信して、航空管制官や防空部隊に正体を察知されるのを避けた。
14機は離陸から約3時間後に、バグダッドの南東17キロメートルにあるアル・トゥワイタ原子力センターの上空に到達する。ここでイラクはフランスの協力を得て、「オシラク」(イラク側の呼称はタムズ)という軽水炉を建設していた。この原子炉の建設プロジェクトはフランスとイラクの間の協定に基づくもので、1979年に建設が開始された。イラクは原子炉の建設目的を科学的な研究のためと説明していたが、イスラエルの諜報機関はイラクが核爆弾に使用するプルトニウムを製造しているという疑いを強めていた。
イスラエル軍機は、18時35分にオシラク原子炉への攻撃を開始。8機のF16は、合計16発の爆弾を投下し、その内8発を格納容器がある建物に命中させた。イスラエル空軍は、この時F16から撮影されたと見られる映像をインターネット動画サイト、ユーチューブに公開している。動画の最後には、爆弾を投下された建物から大きな火柱が上がる模様が映っている。
この攻撃によって原子炉周辺にいたイラク兵士10人とフランス人技術者1人が死亡した。だが原子炉の中にまだ核燃料がなかったため、放射性物質が外部にまき散らされてイラク市民に被害が及ぶ事態は起きなかった。爆撃はわずか2分間で終了。イラク軍は奇襲に反撃することができず、戦闘機のパイロットたちは全員が無事に帰投した。
「オペラ作戦」と名付けられたこの奇襲攻撃によって、イスラエルはイラク原子炉に大きな損害を与え、建設計画を頓挫させた。
「第2のホロコーストを許さない」
イスラエルのベギン首相は爆撃の2日後に行った記者会見で、イラクが建設中の原子炉を攻撃したことを認めるとともに、奇襲に参加したパイロットたちの功績を称えた。ベギンはこの攻撃を「自衛手段」として正当化した。彼は「我々は、敵国がイスラエル市民を狙って大量破壊兵器を保有することを絶対に許さない。我々は、使用可能な手段を使い、最適の時期を選んでイスラエル市民を守る」として、将来も同じような予防攻撃を実施するという姿勢を打ち出した。
この時にイスラエルは、自国を核攻撃から守るために先制攻撃によって敵の核武装を未然に防ぐという方針を国防戦略の中の重要な柱としたのだ。ベギンは記者会見の最後にこう述べている。
「我々が先制攻撃をためらっていたら、イラクによる核攻撃を防ぐチャンスは永遠に失われていただろう。我々が何もせずにいたら、サダム・フセインはあと数年で、3~5個の核爆弾を保有していたはずだ。そうなった場合、イスラエル人は殲滅される。つまりホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)が再び起きる。我々はホロコーストの再来を絶対に許さない」
ベギンがこう語る背景には、ナチスによるユダヤ人虐殺がある。ベギンは1913年に当時ロシア帝国だったブレスト・リトフスク(後にポーランド領、ソ連領となり、今日ではベラルーシ領)に生まれた。彼の両親はホロコーストでナチスによって殺害されている。ナチスは、絶滅収容所のガス室などで約600万人のユダヤ人を虐殺した。
リクードで最も戦闘的な政治家・ベギン
ベギンは敵国が核兵器を持った場合、イスラエルの殲滅を目論むと考え、国際法に違反しても先手を打つという考えの持ち主だった。彼は歴代のイスラエル首相の中で、最も戦闘的、タカ派の政治家である。 彼は若い頃から武闘派として知られてきた。16歳の時に、ヨーロッパ各国に支部を持つ武闘派シオニズム組織「べタール」に加盟。
シオニズムとはユダヤ人の権利保護と独立、自治をめざす運動である。オーストリアのユダヤ人著述家テオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』という本を1896年に出版してからは、シオニズムの中でも特にユダヤ国家を創設するべきだという動きが強まっていた。
19世紀から20世紀初頭にかけてポーランドやロシアでは、ユダヤ人たちがしばしば差別・迫害されていた。ベギンはポーランドで「べタール」の指導者となったが、1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻したため、リトアニアに避難。同国がソ連に占領されると、ベギンはソ連軍に「外国のスパイ」という嫌疑をかけられ、シベリアの懲罰収容所に送られた。
だが彼は、ポーランド亡命政府とソ連がナチスと戦うために結んだシコルスキー・マイスキ条約に基づき1941年に釈放される。