ウクライナ侵攻の原点は第二次チェチェン戦争
プーチン首相は、第二次チェチェン戦争の開始とほぼ同時に、自分に恭順しない新興財閥を粛清し始めた。財閥はメディアを所有していたので、自動的にメディアがプーチンの支配下となった。さらに真実を追求する記者が何十人も暗殺され、人権活動家、反体制政治家が次々に暗殺されていく。ロシア国内だけではなく、外国に逃げた元諜報員らも「裏切り者」として抹殺されていった。
チェチェンへの侵攻は、このような恐怖支配と同時に行われた。翌2000年2月には首都グローズヌイの制圧が宣言され、その翌月にプーチンは大統領選で圧勝する。つまり、現在のプーチン大統領の強大な権力基盤は、第二次チェチェン戦争なしにはあり得なかったのだ。
私は侵略に抵抗するチェチェン現地を16回訪れ、取材を重ねた。そのときに見聞きしたことも踏まえて言えば、ウクライナ侵攻の原点はこの第二次チェチェン戦争にあると言ってよい。そしてロシアは、チェチェン戦争で行った残虐行為を、ウクライナでも同じように繰り返している。
チェチェンでは、ロシア軍は独立派武装勢力との正面衝突を限定する一方、民間人を対象に空爆、砲撃で殺害していった。掃討作戦では、武装勢力がいない丸腰の村だと分かると一軒一軒捜索し、武器を発見したり若者を見つけたりすれば、武装勢力の一員だとして家族や近所の人も皆殺しにもした。
サマーシキという村では、地下室に隠れていた女性や子どもに対して手りゅう弾を投げ込んだり、一斉射撃を行うなどして200人近くを虐殺した。こうした行動は、ウクライナで行われたブチャの虐殺に受け継がれている。
「人道回廊」という言葉も、私には恐ろしい響きを持つ。チェチェンでは、住民の脱出路を確保するとして設けられた「人道回廊」におびき出された住民が、ロシア軍の戦闘ヘリコプターで朝から夕方まで数回にわたり攻撃を受けて惨殺された事件があった。ウクライナでも同じことが起きている。
何といっても、注目すべきは「選別収容所」(フィルター・ラーゲリ)に住民を連行し、パルチザンか否かを選別するために拷問していたことだ。多くの人が突然逮捕されて、そのまま姿を消し、いまだに行方不明のままだ。
家族を連れ去られた人々はチェチェンやロシア中を探し回り、運よく見つかれば身代金をロシア当局に支払って解放してもらえる場合もあった。また、収容所内で死亡した場合は、遺体引き取り料を要求された例もある。
この選別収容所も、ウクライナのロシア占領地に出現している。
第二次チェチェン戦争からウクライナ全面侵攻に至る22年間の経緯については、拙著『増補版プーチン政権の闇』(高文研)をぜひ参考にしていただきたいと思う。
チェチェン戦争、特にプーチンによる第二次チェチェン戦争の残虐ぶりを世界が見逃した帰結が、ウクライナ全面侵攻と言っていいだろう。
どこの国であれ、大国の侵略を許してはならない
今ウクライナで起きている戦争は、「どっちもどっち」とか「喧嘩両成敗」といった言葉で片付けるべきものではない。大国による一方的な侵略戦争と、それに対する抵抗なのである。抑圧された者の自由と尊厳、命を守る戦いだ。ウクライナの抵抗を貶めるのは、日本の侵略に命がけで抵抗した中国や朝鮮の民衆、あるいは米軍に立ち向かったベトナムの民衆を貶めるのと同じである。
大切なのは、大国の横暴を許さないことだ。アメリカの侵略も許されるべきではないし、ロシアの侵略も許されるべきではない。中国だろうが日本だろうがイギリスだろうが同じことだ。
国際社会では大国の横暴を許さず、国内では少数者への抑圧を許さないというゆるぎない思想が今、必要なのだと思う。小学校高学年でも十分に分かるはずのこの考え方を、今さらながら確立しなければならない。