人道無視の象徴的犯罪、「黄色い家」事件
木村 NATO空爆前後のコソボでは、主にセルビア系の民間人が拉致され行方不明になる事件が続発しました。行方不明者の家族などの訴えをまとめると、その数は約3000人にのぼるとされています。「現在はコソボ政府の要職に就いているKLA(コソボ解放軍)関係者が拉致するのを見た」という証言も多くみられます。家族はUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)、警察や行政、メディアに訴えましたが、まるで取り合われない状態でした。
後に、ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)の女性判事であるカルラ・デル・ポンテがこの訴えを調査し、拉致された人たちが、コソボから隣国アルバニアの山中の「黄色い家」と呼ばれる施設に運ばれ、臓器密売の犠牲者になっていたことが明らかになりました。
長 木村さんが現地を取材したところが印象的でした。
木村 私は2001年、セルビアの首都ベオグラードの大統領府前で、不明者の捜索を求める家族たちに出会って以来、この問題を追い続けてきました。だから「黄色い家」のことを知って、現地に行かないわけにはいきませんでした。最寄りの町から車で行こうとしましたが、途中で舗装路が途切れ、案内人たちと山中を1時間以上も歩いてたどり着きました。「黄色い家」は、周りに人気がまったくない、外界と隔絶されたような草原の中の一軒家で、ここで何が起きても誰にも気づかれないだろうという場所でしたね。
ICTYは旧ユーゴスラビア地域の戦争犯罪を扱う場なので、本来アルバニアにおける犯罪は範囲外です。しかし、デル・ポンテはコソボでの拉致犯罪として調査した末に「黄色い家」を探し当てました。KLAの指導者や幹部の関与を示す証拠・証人も確保します。
しかし、ICTYに訴追しようとすると、何度も「ゴムの壁」に跳ね返されたと、デル・ポンテは自著(『LA CACCIA. IO E I CRIMINALI DI GUERRA』=「追跡、戦争犯罪と私」、邦訳未刊行)の中で語っています。
KLAを支援していたアメリカやイギリスは、KLAの戦争犯罪が表面化するのを嫌ってか、情報提供を断るんです。特にアメリカはコソボ建国を後押ししただけでなく、司法の面でもKLAにお墨付きを与えていました。そのせいでKLAの大物にまでは手が届かず、かろうじてコソボにおける民間人拉致容疑でKLA関係者数人をICTYに訴追したのですが、無罪判決が下りました。そのころのコソボでは、KLAに不利な証言をした人たちが暴力や暗殺、脅迫の対象になる事件が相次いでいて、デル・ポンテが集めた証人たちも、報復を恐れて証言を変えてしまったのが無罪の理由です。
デル・ポンテは捜査を断念し、結局、拉致や臓器密売の首謀者と目されるKLAの幹部や指導者は、裁かれることもなく今に至っています。ICTYは、こういう不公正がまかり通ってしまう場です。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争
註:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)が解体する過程で起こった紛争。スロベニア紛争(91年)、クロアチア紛争(91~95)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92~95)、コソボ紛争(98~99)、マケドニア紛争(2001)の総称。旧ユーゴは紛争を経てスロベニア(91年独立)、マケドニア(同)、クロアチア(同)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(92)、モンテネグロ(06)、セルビア(同)、コソボ(08)に分かれた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで、セルビア人共和国軍が多数のボスニア人を殺害した事件。犠牲者数は、戦闘の犠牲者含め7000~8000人にのぼると言われる。スレブレニツァは両軍の武装解除を前提とした国連の「安全地帯」に指定されていたが、ムラジッチ将軍が指揮するセルビア軍が侵攻し占領。住民のうち、主に女性、子ども、高齢者は国連軍基地に避難し、男性はボスニア支配地域を目指してスレブレニツァを脱出した。セルビア軍は避難民をボスニア支配地域に追放するにあたり移送を引き受けたが、この時、避難民の中から男性を隔離し、後に殺害する。また、セルビア軍はスレブレニツァを脱出した兵士を含む男性たちを追撃して交戦。投降してきた者や捕獲した者も数日のうちに殺害した。ムラジッチは95年にICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)に起訴され、指名手配の末2011年に逮捕された。17年11月第一審で終身刑、ICTY閉廷後その機能を引き継いだ国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT)の上訴審で21年6月に終身刑が確定した。
ボスニア紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、これをアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突に、次いで、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人3民族による三つ巴の紛争に発展した。95年にデイトン和平合意によって終結。
コソボ紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1980年代以降、セルビア領内のコソボ・メトヒヤ自治州の自治権を巡り、セルビアとコソボの間には長い確執があった。98年、セルビアがコソボの武装勢力であるKLA(コソボ解放軍)の掃討作戦を開始したことで紛争が開始。99年2月、停戦協議が決裂した後、NATOが国連安保理決議を経ずにセルビア全土を空爆する。3カ月の空爆後、同年6月に停戦合意が成立した。コソボは2008年に独立を宣言したが、セルビアはこれを承認していない。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)
註:旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所。国連安保理決議に基づき、1993年5月、オランダのハーグに設置された。1991年以降の旧ユーゴスラビアにおいて、集団殺害や戦争犯罪など、国際人道法に対する重大な違反に関わった人物を訴追する目的で設立された。161人が訴追され、2017年12月に閉廷。その後は、国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT、所在地はハーグ)がその機能を引き継いでいる。
『ハンティング・パーティ』
註:リチャード・ギア主演のサスペンス・アクション映画。ボスニア紛争終結から5年後、2000年のサラエボを舞台に、かつての花形戦場リポーターが戦場カメラマンとともに謎多き戦争犯罪者を追跡する。リチャード・シェパード監督、2007年、アメリカ。
ラチャク村の虐殺
註:コソボ紛争中の1999年1月、コソボの首都プリシュティナの郊外にあるラチャク村で、セルビア軍兵士により、アルバニア系住民40人以上が殺害された事件。