木村 だからこそ、われわれはもっと研究し、報道しないといけないんですね。オシムさんは、民族主義を止めるには、「人間同士が交わることだ。交わることで信頼を築いて戦争を防ぐことができる」とも言っていました。そのために、アカデミズムにもジャーナリズムにも、まだまだできることがあるはずです。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争
註:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)が解体する過程で起こった紛争。スロベニア紛争(91年)、クロアチア紛争(91~95)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92~95)、コソボ紛争(98~99)、マケドニア紛争(2001)の総称。旧ユーゴは紛争を経てスロベニア(91年独立)、マケドニア(同)、クロアチア(同)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(92)、モンテネグロ(06)、セルビア(同)、コソボ(08)に分かれた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで、セルビア人共和国軍が多数のボスニア人を殺害した事件。犠牲者数は、戦闘の犠牲者含め7000~8000人にのぼると言われる。スレブレニツァは両軍の武装解除を前提とした国連の「安全地帯」に指定されていたが、ムラジッチ将軍が指揮するセルビア軍が侵攻し占領。住民のうち、主に女性、子ども、高齢者は国連軍基地に避難し、男性はボスニア支配地域を目指してスレブレニツァを脱出した。セルビア軍は避難民をボスニア支配地域に追放するにあたり移送を引き受けたが、この時、避難民の中から男性を隔離し、後に殺害する。また、セルビア軍はスレブレニツァを脱出した兵士を含む男性たちを追撃して交戦。投降してきた者や捕獲した者も数日のうちに殺害した。ムラジッチは95年にICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)に起訴され、指名手配の末2011年に逮捕された。17年11月第一審で終身刑、ICTY閉廷後その機能を引き継いだ国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT)の上訴審で21年6月に終身刑が確定した。
ボスニア紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、これをアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突に、次いで、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人3民族による三つ巴の紛争に発展した。95年にデイトン和平合意によって終結。
コソボ紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1980年代以降、セルビア領内のコソボ・メトヒヤ自治州の自治権を巡り、セルビアとコソボの間には長い確執があった。98年、セルビアがコソボの武装勢力であるKLA(コソボ解放軍)の掃討作戦を開始したことで紛争が開始。99年2月、停戦協議が決裂した後、NATOが国連安保理決議を経ずにセルビア全土を空爆する。3カ月の空爆後、同年6月に停戦合意が成立した。コソボは2008年に独立を宣言したが、セルビアはこれを承認していない。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)
註:旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所。国連安保理決議に基づき、1993年5月、オランダのハーグに設置された。1991年以降の旧ユーゴスラビアにおいて、集団殺害や戦争犯罪など、国際人道法に対する重大な違反に関わった人物を訴追する目的で設立された。161人が訴追され、2017年12月に閉廷。その後は、国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT、所在地はハーグ)がその機能を引き継いでいる。
『ハンティング・パーティ』
註:リチャード・ギア主演のサスペンス・アクション映画。ボスニア紛争終結から5年後、2000年のサラエボを舞台に、かつての花形戦場リポーターが戦場カメラマンとともに謎多き戦争犯罪者を追跡する。リチャード・シェパード監督、2007年、アメリカ。
ラチャク村の虐殺
註:コソボ紛争中の1999年1月、コソボの首都プリシュティナの郊外にあるラチャク村で、セルビア軍兵士により、アルバニア系住民40人以上が殺害された事件。