
1980年、非常戒厳下の光州で戒厳軍と対峙する学生たち
韓国最初の戒厳令「麗順(ヨスン)事件」
布施 なぜ民主化して40年近くたった今、非常戒厳が出されたのか――徐さんの『分断八〇年』を読むと、そこには、朝鮮半島の南北分断という現実が韓国社会に大きな影を落としていることがわかります。私はこれまで、南北分断を韓国と北朝鮮、また周辺国も含めた国際問題として見てきましたが、分断が韓国社会や人々の暮らしに及ぼしているさまざまな影響を知ることができて、韓国社会を見る上でものすごく解像度が上がったと思います。
特に、今回の2024年のものも合わせて韓国で17回も戒厳令が出されていたというのは、知りませんでしたし、さらに驚いたのは、最初の戒厳令です。
徐 韓国政府樹立の2カ月後、1948年10月に起きた「麗順(ヨスン)事件」ですね。当時市民が蜂起していた済州島への派兵命令に対し、部隊の一部が拒否して蜂起し、麗水と順天を掌握したのですが、韓国政府軍により約1週間で鎮圧されました。その間、蜂起軍と市民合わせて1万人以上の死者が出ましたが、その多くが「アカ」として虐殺されたといわれています。
布施 韓国軍は、鎮圧するために「艦砲射撃」までしたんですよね。艦砲射撃というと沖縄戦が頭に浮かびますが、軍艦から町を無差別に砲撃するというのは、敵としてせん滅する軍事作戦であって、それはもはや戦争です。自国民に対してそこまでやったのか……と、この本を読んで衝撃を受けました。
徐 街の中では誰もが知っているこの1948年の麗順事件ですが、98年に地元の有志が声を上げるまで、50年間タブーとされてきました。韓国において「アカ」であると疑われることは、麗順事件やその後の朝鮮戦争時には死を、その後の軍事独裁政権下では弾圧や排除を意味してきたからです。でも、今韓国政府が作成している報告書が公開されれば、1948年当時、北朝鮮の関与なんてなかったことがあらためて明らかになるでしょう。2024年の尹錫悦の非常戒厳の理由も、「野党が北朝鮮に操られている」というものでした。南北の分断が韓国社会の民主主義を毀損(きそん)し、「反共」が政治に利用されてきたのです。
布施 「共産主義者=アカ」というレッテルを貼ったら、それは同じ韓国国民ではなくて、敵なんだと。そういう考え方が、韓国で今なお残っているということですね。
徐 そうです。麗順事件をみてもわかるように、戒厳令を出すということは、軍側に殺人免許を与えることなんです。尹錫悦による非常戒厳は、韓国市民の間にふたたび「アカ」への憎しみを植え付け、分断を深めました。その罪は大きいと思います。

南北分断と日本のかかわり
布施 麗順事件でもう一つショックだったのは、まだ韓国に戒厳法がなかった当時、満洲国軍出身の軍人が大日本帝国の戒厳令を参考にして「臨時戒厳」を出したのではないかということでした。韓国の初めての戒厳令が、日本と無関係ではなかったんですね。日本の植民地支配や侵略戦争が戦後の朝鮮半島に与えた影響について、日本の中ではなかなか認識されていません。でも、そもそも南北が分断に至ったのは、植民地支配をしていた日本が敗れた1945年に、アメリカとソ連が勝手に分断線を引いて、当面は両国で分けて統治することを決めたからです。日本の植民地支配と侵略戦争がなければ、南北分断は起きていなかったでしょう。
徐 今の韓国の若い世代は、「日本のせい」という感覚は薄れてきたのですが、植民地時代に生まれたような上の世代にとってみたら、日本の代わりに韓国が犠牲になって朝鮮半島が分断されたというのは、言わずにはいられないんです。取材をしていても、ポロッとその話が出てくるわけですよね。「書いていいんですか?」と聞くと、「ダメだ」と言われるんですが……。
布施 どうして、それを書いたらダメだと言うんですか?
徐 やはり韓国の知識人として、「それを言ったらおしまいよ」というのがあるわけです。分断が長引く中で、韓国が自力でこれを解決できなかったことに対する忸怩(じくじ)たる思いがあるわけですよね。だから、ついつい口には出してしまうんだけども、文字にはなってほしくないということです。李在明(イ・ジェミョン)大統領は、3年前の京畿道知事の時に、「日本が分断されるべきだった」と記者会見で言っていましたが……。
布施 日本は、戦後、一度も戦場になることなく平和を享受してきました。ところが、朝鮮半島では南北で分断され、朝鮮戦争で多くの人が亡くなった。日本の平和というのは、いわば周辺国の犠牲の下で成り立ってきたわけです。南北分断に対して、日本はもっと責任を自覚する必要があると私は思います。