TPPで自滅する日本型産業社会 (2)(後編)からの続き。
アトランタ合意そして署名後の混乱
2015年10月、もう後がないと意を決して環太平洋経済連携協定(TPP ; Trans-Pacific Partnership)の交渉のため、アトランタに乗り込んだアメリカのマイケル・フロマン通商代表部(USTR)代表と日本の甘利明大臣だったが、このアトランタ閣僚会議でも重要テーマに関して各国の溝が埋まらなかった。さらに、アメリカ議会が要求し、大統領貿易交渉権限(TPA)をバラク・オバマ大統領に認めるうえでの条件ともなっていた「通貨操作禁止条項」の挿入も日本等の反対で骨抜きとなった。これは、一方的に貿易黒字の累積する国は、通貨切り下げ操作をしているとして対抗措置をとる、という内容の条項である。閣僚交渉は再び流会となるか、あるいは目前にせまったアメリカ大統領選での議論から予想すると、TPP交渉自体が次期大統領の手にゆだねられるのではないか、との悲観的な意見も多かった。しかし、中国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)創設に焦るオバマ政権、16年夏の参院選準備を急ぎたい安倍晋三政権の双方にとって、これ以上のTPP交渉延期は許される状況になく、会議は急転直下、「大筋で合意が成立」と宣言し閉会した。
しかし、その合意内容に疑義ありとして、アメリカ議会と産業界が合意内容の開示を強く求めたため、やむなくUSTRは早々と6000ページものTPP協定案全文と付属文書を開示した。当然、アメリカ議会・産業界からは不満足の意見が相次いだが、一方ほかの参加各国側では、明文上は自分たちのこれまでの主張がある程度取り入れられ、国内での批判も回避できるとの判断から、相次いで是認の態度表明があった。その結果、16年2月にはTPP条約は12カ国が署名するに至ったのである。
協定案は問題点を先送りしたり、自由貿易推進の大前提や透明性確保などの包括的な精神概念で逃げたり、通貨操作問題のように別途協議として分離したり、いずれも決定的な問題解決の内容とは程遠い。
さらにアメリカ側最大の要求項目である、生物製剤パテント(特許)保護期間は読み方によっては8年でも5年でもいいように解釈され、原産地規則などは実際はどうなるのかグレーゾーンにある状況で、ついにアメリカ議会からは激しい反発が起こり、早期批准を求めるオバマ政権は苦境に陥った。特に生物製剤パテントの保護期間は12年厳守を前提に交渉推進を認めてきたオリン・ハッチ上院議員(共和党、財政委員長)などからは、アメリカの権益保護のためには絶対に妥協できないとの声明が出された。
そこでアメリカ政府は日本側と相談し、(1)水面下で再交渉し、協定とは別に二国間で取り交わすサイドレター形式で、協定には書いていない暗黙の了解をとりつける、(2)TPP条約上の条文規定とは別に「実行計画」を各国に作らせ、その実行計画で実際の保護期間が12年になるように約束させる…というような便法を検討したが、いずれも各国側から批判が多く、進捗しなかった。
これまで公には議論されていなかったが、TPPが発効する際には、アメリカ側が参加国に絶対に押し付けたい条件がある。それが「承認」(Certification)問題である。北米自由貿易協定(NAFTA)の失敗、そしてアメリカにとって交渉大成功と信じられた米韓FTA(自由貿易協定)でも、結果的に対韓貿易赤字が増大する事態となり、アメリカ議会側は、協定条文がどうあれ、現実にアメリカと対象国との貿易収支改善が明確になり、議会がそれを「承認」するまでは、その国に協定上の優遇を与えないとする要求を政府に突きつけた。私は、最初この「承認」問題をTPP反対のリーダーであるニュージーランドのジェーン・ケルシー教授から聞いたとき、「そんな帝国主義時代のような話があるか!」と一笑に付したが、調べてみると、アメリカとラテンアメリカ諸国の関係はそのような現状にあることもわかった。そしてアメリカがTPP参加各国にこの「承認」プロセスをひそかに求めていることもわかり愕然としたのである。
日本、通常国会で早期批准せず
一方、日本では、このような状況と情報は野党議員も知るところとなり、16年通常国会でもTPP批准の是非をめぐって激しい議論がおこなわれた。そもそも最大の問題は、日本政府が同年2月に署名したTPP条約が正文を英語・スペイン語・フランス語とし、日本語が正文ではないことである。フランス語が正文になっているのは、参加国のカナダが英語・フランス語を公用語としているからであるが、TPP参加国でアメリカに次ぐ経済規模を持つ日本、そしてもし批准しなければTPP条約が自動的に不成立となる日本の言語が正文でないことは理解できない。
さらに6000ページにわたる条約文と付随文書の日本政府による公式完全翻訳もされていない、というお粗末な状況にあった。要するに国会審議といっても、審議すべき対象が明確で無瑕疵(かし)の法案として存在していないのである。政府見解としては、13年に日本がTPPに遅れて参加し、その時点ですでに決まっていたことに異議を申し立てられなかったとのことだが、それに納得する者はいないだろう。
往年の野党なら、「そもそも審議する条約の内容が確定できない」という「入り口問題」で審議拒否、廃案へ持ち込んだであろう。しかし、残念ながら最大野党である民主党(当時)は党内でTPP賛成議員も多く、意見統一も困難な状況で、そうした政党としての基本能力も発揮することができなかった。
それにもかかわらず、TPP法案が審議日程の関係で16年夏の参議院選後の臨時国会に先送りになったのは、ワイドショー的には西川公也TPP特別委員長がTPP交渉の内実を暴露した(そんなことが秘密厳守のTPP交渉で許されるはずがないが)という触れ込みの著作出版を予定し、その内容を察知した野党の追及に対して真っ黒に消したゲラ刷りを提出したために、国会審議が紛糾した結果だとされる。しかし、絶対多数を持つ与党がこの程度の審議混乱を乗り切れぬはずはなく、おそらく何らかの理由で、批准を遅らせたかったのだろう。後述のごとくアメリカ議会では大統領選の前哨戦におけるTPP批判合戦真っ最中で、アメリカ世論がTPPにきわめてセンシティブになっている状況で、日本が先駆けすることにはオバマ政権自体が否定的だったはずである。
アメリカ大統領選の余波
ここであらためてアメリカ国内におけるTPPへの逆風と、その一方で日本など他の参加国に対し着実に進められてきた、投資や物流の自由化について振り返っておこう。(1)主要候補がすべて反対を表明
TPPに反対する国際NGOの戦略は「ドラキュラ戦略」と呼ばれ、TPPを容易に批准させず、交渉に時間をかけさせて夜が明けるまで頑張れば、陽の光でドラキュラと同じようにTPPは壊滅するというものだった。そしてアメリカ大統領選はまさにTPP問題に陽の光を当てた。
オバマ政権を批判する共和党のドナルド・トランプ候補がジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事のような共和党主流の候補を抑えてリードし、移民問題と並んでTPPをオバマ政権の失態の典型として攻撃し続けた。民主党側もバーニー・サンダース上院議員はTPPに代表される自由貿易協定こそがアメリカの貧困や失業の根源だとし、自分が大統領になれば廃棄すると明言した。それに引きずられて、オバマ政権の国務長官としてTPP推進の側にあったヒラリー・クリントン上院議員までも次第にTPPに対して慎重な姿勢を示し、さらに予備選挙がヒートアップするに従い、現行TPP協定案拒否の立場へシフトした。
大統領選のさなか、16年4月に表面化した一連のパナマ文書スキャンダルも、アメリカ・パナマ自由貿易協定と関係づけられ、TPP批准への逆風となった。
(2)アメリカで経済効果を疑問視する報告書
アメリカのシンクタンクや政府調査機関においても、TPPの効果を疑問視せざるを得ない分析結果がつぎつぎと公表された。