急ピッチで進むゆがんだ改革
ラジカルな教育改革が急ピッチで進められている()。例えば、2006年12月、戦後59年にわたって日本の発展を支えてきた教育基本法が、民意無視・良識欠如の強行採決により「改正」され、07年6月には教育三法も、同じく強行採決により「改正」された。
並行して、全国学力テストの実施、第三者学校評価制の導入準備、エリート的な公立中高一貫校や構造改革特区校の増設、問題行動への厳罰主義的対応や学警連携(学校と警察との連携)、ゼロトレランス政策(忍耐ゼロ政策)などの改革が進められている。
さらに、教育再生会議は、学校週五日制の見直しや、授業時間数の増加、教科「徳育」の導入などを提言し、学校選択制の全国展開や教育バウチャー制(学校選択制を前提にして、入学した児童生徒の数=教育利用券の数に応じて各学校の予算を配分する制度)の導入についても検討している。
改革の必要がないわけではない。しかし、改革はあくまでも合理的かつ適切でなければならない。その点で、現在の改革は問題が多すぎる。こういう改革が進むなら、日本の教育はますますゆがみ、その機能は低下していく。子どもたちの将来も、日本の未来も危うくなる。なぜそう言えるのか。その理由を考えてみよう。
教育基本法・教育三法の危険な「改正」
07年7月の参院選で自民党が大敗し、テロ特措法継続問題を抱えた臨時国会の混乱が必至となる中、安倍晋三前首相が9月に辞任した。わずか1年の政権だったが、「美しい国づくり」をスローガンに掲げ、内閣に教育再生会議を設置し、官邸主導で様々の危険な教育改革を進めた。特に重要なのは、教育基本法と教育三法の「改正」である(いずれも改悪であるため「改正」としてきたが、以下ではカッコを省く)。
主な改正点を確認しておこう。教育基本法では、(1)前文に「公共の精神」「伝統」を、第2条に「教育の目標」として「我が国と郷土を愛する態度」を始め、多数の復古主義的・国家主義的な徳目・態度項目を盛り込んだこと、(2)子どもの教育に対する第一義的責任は家庭にあると規定したこと、(3)旧法第10条の「教育は、不当な支配に服することなく、“国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの”」という規定を、「教育は、不当な支配に服することなく、“この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの”」(第16条)としたことが特に重要である(“ ”は筆者。以下同)。
これらの変更が重大かつ危険なのは、(1)は国家主義的・復古主義的な教育の内容・指導を強調・正当化する根拠となる可能性があり、(2)は問題行動への厳罰主義的な対応や、競争主義的・市場原理主義的な教育再編(教育機会・学校の差別化、格差化)を促進・正当化する根拠となる可能性が、(3)には、政治・行政による教育現場の管理主義的・思想的な統制強化の根拠となる可能性があるからだ。
教育三法の主な改正点は以下の通りである()。
学校教育法では、(1)教育基本法に新たに盛り込まれた徳目・態度項目を盛り込んで教育目標を大幅に拡張し、あわせて、これまで「教科に関する事項」は文部科学大臣が定める、としていたものを「教育課程に関する事項は」に改めて、文科相の教育統制権を拡張したこと、(2)副校長・主幹教諭・指導教諭という新たな職位を導入したこと、(3)学校評価・情報提供の義務化・画一化につながる規定を盛り込んだこと、の三点が重要である。
教員免許法では、教員免許更新制について規定したこと、地方教育行政法では、(1)教育委員会事務の点検・評価と公表の義務化、(2)教育委員会に対する文科相の是正要求権の規定を復活させたことが重要である。
以上の変更点のうち、ここでは教育目標の危険性について述べる。
先述の教育基本法の改正点(3)を受けて改正された学校教育法は、第21条に10の教育目標を列挙しているが、その危険性は、同条第3項「“我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、”伝統と文化を尊重し、…我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、“進んで外国の文化の理解を通じて、”他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」に端的に表れている。
“ ”部が示すように、この規定には、我が国の現状や歴史については(唯一の)正しい理解の仕方があるのに対して、外国の文化については多様な理解の仕方があるという考えが含まれている。つまり、我が国の現状や歴史については正しい理解に導かなければならないというのである。
この問題性は、同条第5項で「国語を正しく理解し」、第6項で「数量的な関係を正しく理解し」となっていることからも明らかである。国語や算数・数学を正しく理解することと同じ意味で、「我が国と郷土の現状と歴史」も正しく理解すべきものだというのである。最初の下線部は改正前から「正しい理解に導き」となっていたが、改正教育基本法を踏まえるなら、この規定の含意・影響は重大である。
歴史や社会の現実は、種々の対立や矛盾をはらむ多面的・重層的なものであり、その解釈・理解の仕方は、視点や価値観などによって多様でありうる。「正しい理解に導き」という規定は、そういう多様な歴史解釈・現実解釈の可能性を否定することになりかねない。
また、どういう解釈を「正しい」とするかという点でも問題がある。というのも、近年の教育政策・教育行政は、その点で権力的な介入・統制を強めているからである。例えば、以前から相当数の公立小学校の通信表には、「愛国心」の評価・評定欄が設けられていた。こうした評価・評定がさらに重視され、そこで「正しい理解」なるものが重視・強要されないとも限らない。
近年の歴史教科書検定の動向にも、同様の危険性を見て取ることができる。例えば、南京大虐殺や従軍慰安婦問題や沖縄戦の集団自決について、虐殺の規模や軍部関与の有無などの点で「あいまいさがある」「専門家の間で意見が分かれている」といった理由で、教科書に記載しない、簡潔な記述にとどめるといった「ゆがんだ事実主義」が強まっている。
これは、歴史教育のあり方という点でも、「自ら学び考える力」の育成という点でも問題である。歴史の学習では、歴史的出来事の時系列的展開を知るだけでなく、異なる解釈があることを知り、それらの解釈の特徴や根拠を比較・検討・評価する能力を育むことも重要である。上記規定は、その重要性を否定し、特定の現実理解・歴史理解を強制する根拠となりかねない。
学校選択制が作りだす教育格差
教育システムが、市場的な選択・競争と、学校の格差化を促進する方向で再編されていることも、危険な改革動向である。これは、「格差社会」問題の教育版と言える問題、「格差社会」を再生産していく危険性を宿している。エリート的な中高一貫校や構造改革特区校を含めて、学校選択制を主張する論者は、学校を選ぶのは保護者・子どもの権利だと言う。また、選択制になれば公立学校も生徒集めに努力するから教育はよくなると言う。
しかし、選択制になれば、選択時点での実質的価値(教育の質)がどうであれ、人気校の市場的価値は高まり、不人気校の価値は低下する。しかも、その市場的価値は実質的価値を左右するようになる。なぜなら、どちらの価値も入学する生徒とその保護者によっても左右されるからだ。つまり、誰かが相対的に価値の高い教育を受け、誰かが相対的に低い価値の教育を受けざるをえなくなる。そうした格差化のメカニズムを内包している点に学校選択制の特徴がある。