日本社会に広がる貧困
「メールにて失礼いたします。現在45歳 男 ○○○○ともうします。北海道から東京に体一つで上京しネットカフェなどに寝泊まりしながら派遣の日雇いの仕事をする毎日、派遣先は主に重労働の建築現場で経験も体力もない自分にとっては毎日が苦痛で精神面も不安定な状態になりつつあります。正直その日暮らし的な今の生活に限界を感じています。自分には中学生の息子がいるので、東京で一稼ぎして仕送りを考えていましたが現状では仕送りどころか自分の生活も困難です。是非お力添えをしていただきたくメールいたしました。どうぞよろしくお願いします」私の所属するNPO法人自立生活サポートセンター・もやいには、このような相談メールが毎日のように届く。かつては、元日雇いの野宿者や母子世帯が大多数だったが、今は若者や一般世帯にも広がっている。とくに増えているのは20~30歳代の働き盛りでありながら、「働いているのに/働けるのに、食べていけない」という人たちだ。
2008年3月に連絡のあった35歳男性は、妻と子3人を抱えて、寮に住みながら派遣会社で働いていたが、収入は月額20万円程度しかなかった。寮費・水光熱費が割高に設定されている中で、20万円では5人は食っていけない。
こういう事例は、しかし、しばしば反発を招く。好ましくない結果をもたらしたのは、何よりも本人の努力不足が原因という自己責任論が根強いからだ。それは、貧困問題に永遠について回る偏見である。イス取りゲームにおいて、イスに座れなかった人たちに着目すれば、批判は容易である。「スタートダッシュが遅かった」「ぼーっとしていた」「動きが緩慢だった」と、まるでプロ野球観戦でもするように、人々は冗舌になれるだろう。しかし、ひとたびイスの数に目を転じれば、事態の様相はがらりと変わる。イスの数が足りなければ、ましてや減っていけば、必然的に座れない人たちは増えていく。そのとき問題の根幹は、座れなかった人たちの自己責任論議から、イスの数、つまり人々の生活を支える諸々のセーフティネットの議論へと転換するだろう。
ふつうの人々がふつうに暮らせる社会のために必要な視点はどちらなのか。その綱引きが今も繰り広げられている。
貧困とは“溜め”が失われた状態
貧困問題を考えるためには、筆者は“溜め(ため)”という視点を導入する必要がある、と言っている。“溜め”とは、人々の置かれている条件のことであり、イス取りゲームの比ゆを引き継げば、ゲーム参加者の体力のようなものである。さまざまなものが“溜め”としての機能を持っている。お金があるのは金銭的な“溜め”があるということだ。頼れる親がいる、仕事を紹介してくれる、転がり込める友人がいるのは、人間関係の“溜め”だ。また「生きてりゃそのうちいいことあるさ」と思えるなら、その人には精神的な“溜め”がある。“溜め”とは、このように金銭、人間関係、精神状態にまたがる複合的な概念であり、その“溜め”を総体として失うのが「貧困」だと筆者は考えている。
たとえば、失業というトラブルに見舞われた正規労働者と非正規労働者2人のうち、どちらが「より条件のいい就職先」というイスに着けるかを考えてみる。正規労働者は、就労中にためたお金があって、それで失業保険の支給まで食いつなぐことができ、失業保険受給中はある程度の生活基盤を確保しながら、じっくりと次の仕事を探すことができる。かつての同僚たちの中に条件のいい仕事を紹介してくれる人がいるかもしれない。他方、低賃金で働いていた非正規労働者は、失業保険が開始されるまでの3カ月を食いつなぐお金を持っておらず、そもそも受給資格そのものがないかもしれない。貯蓄も少なく、直ちに次の仕事に就かなければ、家賃も払えない、食べるものもない、という状態に追い込まれやすい。このとき、2人は職探しというスタート時点において、同じ体力でイス取りゲームに臨んでいると言えるだろうか。
また、公的支出に占める教育費の割合が経済協力開発機構(OECD)28カ国中28位という状態の中で、子ども一人を大学卒業させるのにかかる費用は一人当たり2370万円と言われている。では、そのお金を用意できない親の子は、学費・生活費に加えて年間数十万円に及ぶ塾費用を用意できる家庭の子と比べてどうか。その体力差をカバーできないのは、ひとえに自己責任の問題なのだろうか。ゲーム参加者の体力を問うことなく、どうしてゲームの公平性を担保することができるだろうか。
“溜め”という概念は、その体力がお金だけではなく、人間関係の資源を含めて多様な範囲に及んでいることを示している。国会議員はしばしば「食えないのは自助努力が足りないから」と自己責任論を振りかざす。しかし自助努力だけの勝負ならば、なぜ自民党国会議員の半数以上が二世議員なのか。それは、その人たちの言に反して、人間関係の“溜め”がいかに重要かを立証している。国会議員こそ、自助努力だけでは済まない現状を強調すべきなのだ。
「貧困」はしたがって、たんにお金がない「貧乏」とは区別されるべきだ。貧乏でも家族や地域との豊かな人間関係をもって幸せに暮らしている人はいるし、それゆえに貧乏は笑い飛ばせるかもしれない。しかし、基礎的なもろもろの“溜め”を奪われた貧困状態にありながらも幸せだという人は定義上ありえないし、また笑えるものではない。だからこそ、貧困は「あってはならない」ものなのであり、古来政治の重要な役割の一つは貧困をなくすことにある。貧困問題に取り組まない政治家は、それゆえ、自ら政治家としての資格を捨てているに等しい。
放置すれば社会の弱体化を招く
なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは、貧困の放置は社会の弱体化を招くからだ。これは道徳的・抽象的な意味ではない。貧困状態に放置された人たちが、どうやって生きていくかを考えてみればいい。多くの人たちは、家族の支えも公的な保障も受けられない中で、生きるために労働市場にしがみつくことになるだろう。そのとき、人々は“溜め”を失い、食っていけない状態で労働市場に(再)参入するため、「どんな低賃金でも、どんな条件でも働きます」という“NOと言えない”労働者となって戻るからだ。冒頭に紹介した、働かなければ今日の宿も失う、子どもを路頭に迷わせてしまうという状態にある人たちが、労働条件について会社に異議申し立てができるかを考えてみれば、答えは明らかだろう。
この間、貧困が拡大してきたのは、労働市場の崩壊という原因が大きい。しかし、貧困に対する(自己責任論による)放置は、それに止まらない。それは“NOと言えない”労働者を大量に生み出し、それによって労働市場を崩壊させる。つまり、貧困は労働市場崩壊の結果であると同時にその原因でもあり、両者は相互に悪影響を及ぼし合う。これを「貧困化スパイラル」という。
官民にわたるワーキング・プアの増大は、貧困をその手前で止めなかった社会が“NOと言えない”労働者を大量に生み出したことの帰結であり、それはまた、コインの半面の問題として正規労働者の労働条件を切り崩さずにはおかない。低処遇労働者が増えれば増えるほど、安定処遇の人たちもそれとの均衡で低処遇化していくか、または安定処遇に見合った高い生産性を要求されるからだ。それは、総務省の就業構造基本調査結果が明らかにしたように、短時間就業と長時間就業の二極化を促進するだろう。「過労死か貧困か」という究極の二者択一を迫られる、ということである。