ある「派遣切り」男性の物語
先日、私が生活保護申請に同行した36歳男性は、北海道北部の出身だった。実家は乳牛130頭を飼う酪農家で、彼も高校中退後17年間、家業を手伝っていた。しかし3年前に家業が立ちいかなくなり、事業債務を整理して廃業。一家離散となった。「これからは一人でやっていけ」と父親から告げられた彼は、地元で就職先を探すものの見つからず、派遣労働に。約2年半の間、ほとんど途切れることなく群馬・三重・愛知の工場を転々とする。2008年11月10日解雇通知。20日に仕事が終了し、30日に寮を追い出された。契約期間は09年3月末まで残っていたが、解雇予告手当も支給されず。典型的な「派遣切り」だった。その後1カ月、彼は各地を転々としながら仕事を探すが、酪農と派遣労働以外経験のない中で仕事が見つからない。残りの生活費が逼迫(ひっぱく)してくる中で、彼はいわゆる「闇サイト」にアクセスし、依頼人と会う。依頼人は彼に偽造免許証を渡し、「これで携帯電話を買ってきたら1万円やる」と。しかし地方出の青年は一発で偽造を見抜かれ、逮捕・勾留。3カ月後、3年の執行猶予がついた状態で出てきた。その翌日に相談に来た。
彼がどこまで「ちゃんと」やってきた人かどうか、犯罪の片棒をかつぐ以外「本当に」他に選択肢がなかったのかどうか、その議論をここで展開する気はない。私が言いたいのは、こうして36歳の「前科モノ」ができあがった、ということである。酪農で暮らしを立てていく道が閉ざされ、その後は工場派遣で歯車以上の仕事を提供されていない彼は、さらに「前科モノ」のレッテルが加わった今、これからの就職活動において常に不利な立場に置かれ続けるだろう。結婚はおろか、自分自身の生計維持にも苦労する日々が続くかもしれない。
しかし、彼もやはり他の人々と同じように70歳、80歳まで生きていく。これからの彼の30年、40年を、社会はどうするつもりなのか。年金も納められなくなった彼が死ぬまでにかかる生活費・医療費のコストは、彼が一生かかって支払う税金をはるかに上回るかもしれない。そんなお金はムダだと騒ぎ立てたところで、彼がいなくなるわけではない。人間は生きていく。その生存コストを、社会はどうするつもりなのだろうか。
崩れゆく「中間層」
日本社会は、男性正社員が一家全員の生活費を稼ぎ、妻が家事・子育てを担い、子どもが育っていく、という「家族モデル」を作ってきた。その弊害は多々あったが、それが一定量の中間層を形成し、日本経済を牽引(けんいん)し、次世代を育成してきたことも事実である。しかしその中間層が今、相当程度崩れてきていることは、すでに周知のことに属する。15~24歳の若年層では、非正規雇用率は48%に上る。都留文科大学の後藤道夫教授の試算によれば、中学・高校卒の者の無業・非正規比率は男性でも44%に上っている。ここでも問題は「その人たちがちゃんと勉強していたか」ではない。この層は、早い段階で職業アイデンティティーを形成できず、また職業訓練も受けられていない。このまま20代後半、30代を過ごす者も少なくないだろう。社会を牽引し、次世代を育成する中間層には、一生かかってもなれないかもしれない。そのとき、社会はどうするのだろうか。
ムダは徹底的に削り取るべき、とよく言われる。効率重視の市場原理が人間にも適用されるようになり、「あいつは使えない」といった表現をよく耳にするようにもなった。ムダの対象がモノならば、削り取ればおしまいである。しかし、それが人間ならば、いくらムダのレッテルを張ったところでその存在がなくなるわけではない。
その生存コストを支払いたくなければ、社会はその人たちを死に追いやるようになるだろう。もちろん表立っては殺せないから、生活保障の水準を切り下げ、医療を取り上げ、徐々に死に追いやることになる。しかし、いくら取り繕ったところで「死んでしまえ」というメッセージは敏感に感知されるから、社会はすさんでいく。「自分を殺そうとする社会の規律をどうして守らなければならないのか」と考える人たちが増えていくだろう。こうして、社会は弱体化していく。
「新自由主義」は本当に効率的なのか
人間とは生きているだけでコストのかかる存在である。しかし、効率重視と言われる新自由主義が、人間のコストパフォーマンスを真剣に検討してきたかと言えば、私は疑わしいと思う。新自由主義とは、1980年代以降、イギリス、アメリカから世界に広がってきた経済路線である。社会保障支出を最小限に抑える一方、企業活動を制限する規制を緩和することで、経済を効率化できるとする考え方だ。日本では小泉純一郎政権などが推し進めた。だが現実には、新自由主義は人間のコストパフォーマンスという視点を軽視し続け、その点でむしろ、非効率的な社会を作り上げてきてしまったのではないか。コストパフォーマンスは「自助」によって図られるべきものだ、とよく言われる。しかしそれで片付くのであれば、企業に対する経済産業省も、人間に対する厚生労働省も不要だろう。そんな単純なものではないからこそ、試行錯誤を繰り返し、制度や行政機構は今の形に至っている。
新自由主義とは、実は大変非効率な経済学だったのではないか、という反省が経済学自身の中から生まれてくるべきではないだろうか。そして、人々がそれぞれに生きている実態に即して、人間の生存を確保するほうが、はるかに高いコストパフォーマンスを実現することを、数値的にも立証すべきではないだろうか。それを私の視点から言えば、「貧困対策は最大の景気対策だ」ということになる。
製造業派遣に従事していて「派遣切り」にあったある日系ブラジル人労働者が集会で言っていた。「私たちはいい消費者だったはずだ。しかしもう消費もできない」と。労働を掘り崩し、消費を低下させ、生存コストのみを負担させる社会に未来があるのか。どんなハンディーを背負っていても、その人を生かすことのできる社会がもっともコストパフォーマンスのいい社会ではないのか。
人間の生存コストをきちんと勘案できる、まがいものでない経済学の再生を期待したい。