「生存権」保障は自助努力の支援
構造改革の名のもとに、国は大企業優遇税制や非正規雇用を推進するような労働法制を進めてきました。日本を代表する大手製造業16社の内部留保は、製造業での派遣労働が認められる前の2002年3月期末に比べて、倍増しの約33兆6000億円にのぼるといわれます。このように、巨大資本を操り、莫大な富を企業が独占する一方で、働けば働くほど貧しくなる人、「派遣切り」により仕事すら見つからない人も社会にたくさんいます。国家が、従業員の人間としての尊厳よりも、企業の利益を重視してきたためであり、国家が作り出した貧困です。
このようなワーキングプアや貧困を、憲法問題としてとらえたときに、まず、憲法25条の生存権が貧困にどのような態度をとっているかが問題になります。
憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とします。国民には最低限度の生活を営む権利が人権として保障されることを宣言し、またそうした生活水準を達成する施策を国に要求できると定めています。これを生存権といい、社会権のひとつに含まれます。社会権は市民生活に国家が介入することを求める権利です。
さて、国が不適切な政策を実施したせいで貧困が生まれているとすれば、たしかに国は、国民生活にしっかりと介入して、生活の面倒をみてほしいと感じる人もいるかもしれません。
しかし、憲法で一番大切な考え方は、国家権力を法で縛ることを通じて、国民の自由領域に介入させないことです。これを立憲主義といいます。国民が国にべったりと依存して、国が生活面に大幅介入してくると、国民の自由は有名無実になりかねません。生存権はあくまでも一人ひとりが自立できるようになるまでの「支援」を求めるものです。それは、自由を求める一人ひとりの自助努力を支援することなのです。
強者の財産権を制限
ところで憲法は25条から28条まで、生存権、教育を受ける権利、勤労の権利、労働基本権を定め、それに次ぐ29条で財産権を保障しています。20世紀に生まれた現代的人権である社会権規定の後に、18世紀に生まれた近代的自由である財産権を定めたことには理由があります。フランス革命などの近代市民革命によって、近代的な人権が確立されましたが、その中心にあったのは財産権です。財産権の保障によって、市場経済が発達し、産業革命が起こり、そして巨大資本が現れました。ところがもう一方で、「もてる者ともたざる者」との格差が拡大して社会的緊張が生まれ、貧しい者は生きることすらままならない状況になってしまいました。
このような経済的弱者を救済するために登場したのが、社会権の中心になる生存権ですが、もう一方で、財産権の大幅規制が認められたのも20世紀に入ってからのことです。莫大な財産・資本力を背景とした資本家が、財産も資本ももたない労働者を搾取することを大幅に規制してはじめて、そのような社会的緊張を避けることができるからです。社会権規定の後に財産権規定をおいたのは、財産権が、社会権保障の精神と調和する範囲で保障されるにすぎないからです。経済的弱者が健康で文化的な生活を営むためには、彼らにも一定の財産が必要です。弱者の財産を保護する手段であれば、強者の財産権を大幅制約することを認めているのです。経済的弱者の財産権は、国が積極的に富を再配分する施策をしない限り、形式的で名目的なものになってしまうので、そのような施策を通じて、財産権保障を実質化しようとしているのです。
そのような点からみると、たとえば、大企業がもっている内部留保を雇用維持に充てるような規制立法も、憲法の精神にかなうものです。従来、企業の内部留保は、株主に還元したり、再投資に回されたりしてきました。そのことが日本の経済成長を助けてきた面はあります。しかし内部留保が膨らんだのは、労使間の妥協による結果という面もあります。また、そもそも「もてる者ともたざる者との社会的緊張」という構図は、まさに19世紀の自由主義経済の状況とよく似ています。そうだとすれば今こそ、大企業の財産権を大幅に制約することが求められているのです。
このように憲法は、貧困の問題に対しては、生存権の保障という面だけではなく、財産権の規制という面からも配慮しているのです。
生かしたい歴史の智慧
ただし、憲法が、誰の財産でも大幅に制約してよいといっているわけではないことに注意する必要があります。近代市民革命当時、財産権が天賦(てんぷ)不可譲だといったのはJ・ロックです。その趣旨は、自分が働いて得た成果(財産)が完全にその人に帰属すること、その財産を侵害されないことを意味していました。当時は、生産手段と労働とが分離していませんでした。ですから、そのような財産権を保障することは、労働者の生存をも保障する意味があったのです。
そうだとすると、生産手段と労働とが分離したその後の時代においては、同じ財産権でも、大企業の財産権と、生存に密着した小生産者や労働者の財産権とでは、意味が違うのです。社会の大多数の人々の自由・財産を実質化するためには、大企業の財産権を大幅に制約する必要がありますが、労働者や小生産者の財産権を大幅に制約してしまっては、その個人の生存すら脅かすことになりかねないのです。
そのような観点からは、誰の財産権か、その帰属主体ごとに、規制がどこまでできるかを類型化するのもひとつの考え方です。たとえば健康で文化的な生活を営むのに必要な「個体的生存のための財産権」には、最小限の規制しかできないとしながら、他方で大企業の「資本家的所有」に対しては、経済的弱者の保護を実現するための大幅な制約が認められると考えるのです。
極端な構造改革政策の結果、貧困の問題が深刻化し、そこに社会の関心が集まっています。大企業の財産権を大幅に規制することが学者たちの間で活発に議論されたのは、公害問題が社会問題化した1970年ごろです。19世紀以降、大資本と労働者・小市民の社会的緊張の歴史は、切り口を変えて繰り返しているのです。私たちは、憲法に込められた歴史の智慧をぜひ現実に生かしていきたいものです。
ジョン・ロック
John Locke。1632~1704年。イギリスの哲学者。イギリス経験論哲学の基礎を確立し、政治思想においては、個人的自由を基本的人権として擁護。18世紀啓蒙思想の源流をつくった。著書に『人間知性論』『市民政府二論』など。