日本政治の失敗
世界でもトップレベルで高齢化が進む日本において、経済の担い手となる若い世代の減少は、経済成長の鈍化を意味する。反して社会保障費は増加の一途をたどるため、ほとんどの人の手取り所得は減少するであろう。政治家は、今後、高齢化のコスト分担を国民に説得しなければならないわけだが、現状は2人続けてやめた世襲総理大臣の例を引くまでもなく、知識も意欲も覚悟もなにもないようだ。むしろ、「なにもない人」が政治家に選ばれていると見るべきだろう。わかりやすいのが、今日の自民党の世襲制限の問題である。自ら汗して働いたことがない、厳しい人生の選択にも直面したことがない2世、3世の政治家が、親の代からの地元の利権の貸し借りのなかで「家業としての政治屋」として選出されてくる。世襲制限は「職業選択の自由を阻害する」などという反論もあるが、政治家が職業であるとは、恥ずかしくも、愚かしい見方ではないだろうか。
元最高裁判事の福田博氏が著書の『世襲政治家がなぜ生まれるのか?』で不平等な投票価値を引き起こす不平等な選挙区の区割りと世襲の関係について、重要な指摘をしている。投票価値が平等な選挙区割りの見直しは、民主主義の基礎であるが、国会の裁量が大きい。しかし、国会では、世襲議員が自らが不利になるような選挙区割りの見直しに賛成するはずがない。このままでは、政治は絶望的な状況である。
政治市場の規制緩和
こうした無能な世襲議員を一掃して、在野の優秀な人が政治家にならないと、社会保障制度も含めて日本の閉塞感は克服されないであろう。しかし、優秀な人ほどすでに仕事を持っており、今の選挙制度の参入障壁・コスト・不確実性の高さを考慮すれば、政治家を志さない。それでも普通の市民が、例えばサラリーマンであっても選挙に出馬し、そして当選した場合もサラリーマンと議員を併任できる仕組み、一種の政治市場の規制緩和を行えば、政治市場(=選挙)の競争は一気に激化するのではないだろうか。市場競争に関する経済理論である「コンテスタブル理論」によると、実際に参入がなくても、常に競争相手の参入の可能性があれば、既存企業は過大な利潤を上げることはできない。このコンテスタブル理論を政治市場に導入すれば、当選した政治家は常に緊張感を持ち続ける必要が出てくる。
実際に、世襲は自民党の体力を確実に奪っているようだ。これは、自民党にとっても予想以外の結果につながっているのではないか。世襲の壁に阻まれた保守系の優秀な若い人材が続々と民主党に向かってしまい、自民党は能力の劣った保守勢力に転落しつつある。日本の二大政党制は、保守とリベラル、保守と革新という分類ではなく、古い体質の世襲保守党と若い改革志向の保守党に向かいつつあるのではないか。これは国民の選択肢からみれば決して望ましくはない。世襲を制限し、政治市場の参入障壁を低くすることにより、本当の二大政党制が生まれるのである。
ワーク・ライフ・バランスと討議・熟慮民主主義
世襲制限、選挙区割りの見直し、政治市場の規制緩和などの多くの政治的な課題があり、こうした課題を克服できないと社会保障制度改革は進まない。閉塞する日本を明治維新に擬して、維新のヒーローの登場を期待する声もあるが、カリスマ的な個人に多くを期待することは、かえって危ういこともある。むしろ、国民の側が主体的な参加と選択を行うべきである。ワーク・ライフ・バランスに欠けて、日々の仕事に追われ、新聞や本も読まない、政治的に関心も持たないという状態では、適切な政治的選択はできないだろう。ワーク・ライフ・バランスは通常、仕事と生活の両立と考えられているが、仕事と市民としての社会・政治参加もある種のワーク・ライフ・バランスである。長時間労働を解消し、余裕ができた時間を社会・政治参加にも使うべきである。そうして多くの人々が政治にかかわるようになれば政府をチェックする人が多くなり、これまで発生していた利権誘導などは減少するであろう。そして、人々が社会保障などの難しい政治問題について、マスコミに踊らされることなく、自らの意見を発し、そして他人の意見を聞くという「討議民主主義」「熟慮民主主義」が定着すれば、国民の衆知と連帯によって社会保障制度は持続可能性を保ち続けるであろう。
しかし、こうした市民の政治参加が根付かないと、後世の歴史家は、政治の失敗が日本を衰退させたと評価するであろう。閉塞する社会を解消するために重要なことは、具体的な改革案だけではなく、市民の政治への参加なのである。
政治への期待は高齢化のコストを分散すること
社会保障制度改革は、政治の影響が大きい。そして、これからはますます政治の高齢化は進む。つまり、有権者が高齢化するため、高齢者の声が大きくなり、高齢者は自分たちに有利な公約をする政治家や政党を支持し、政治家・政党もそれに迎合する。しかし、こうした短期の視点だけで選択をすれば、スウェーデンとイタリアの例のように明暗が分かれ、世代間対立は決定的なものとなるだろう。前回の「どうなる!大貧国ニッポンの社会保障(2)」の最後でも触れたが、1990年代半ば、スウェーデンとイタリアは、大幅に給付をカットするという類似した新しい年金制度を導入しながら、新制度への移行期間で対照的な結果となった。スウェーデンは、移行期間に旧制度にカバーされる中高年の割合が小さい(面積が狭い)。これは、中高年も部分的に新制度を受け入れていることを意味している。一方のイタリアは、旧制度でカバーされる中高年の割合が大きい(面積が広い)。しかも、しかも中高年のところで旧制度と新制度のカバー割合が断絶している。結果、イタリアは新制度への完全移行までに長い年月がかかり、それが不安定な財政状態を長引かせる原因となった。この2カ国の例が意味するところは、繰り返し言うが、万人が得をする制度はない、ということである。高齢社会で社会保障費の抑制が急務である日本において、政治への期待、すなわち国民が討議・熟慮しなければいけないのは、高齢化のコストをいかに広く薄く、多くの世代で分散するかである。そして、それをリードするのが、政治家の本来のつとめであろう。