忘れ去られた「貧困」
経済協力開発機構(OECD)の発表によれば、日本の相対的貧困率は14.9%だという。しかし「7人に1人が貧困」という生活実感があるかというと、「そこまでの実感はない」という人が大半ではないかと思う。なぜ日本社会は、なかなか貧困問題に向き合えないのか。大きな原因の一つは、日本人の「貧相な貧困観」(阿部彩)に由来している。少なからぬ日本人にとって、「貧困」は極限状態を意味している。「貧困」と言われて思い浮かべるのは、アフリカの難民キャンプに暮らす栄養失調の子どもたちだ。テレビ番組等を通じて、幼いころから「貧困」のイメージは飢餓状態(生存ぎりぎりのライン)に固着していく。
この背景には、戦後日本の高度経済成長がある。1960年代を通じた高度経済成長期に、日本社会は「貧困からの脱却」を経験した。それは、幼少期には七輪で火をおこしていた人がストーブにあたる、かまどにまきをくべていた人が炊飯器でご飯を炊くようになる、という劇的な変化だった。「一身にして二世を経る」という言葉が当てはまるような体験を、その時代を生きた世代が丸ごと通過し、目の前で実現してゆく「文化的な」生活を実感する中で、貧困は取り組むべきものから、述懐するものへと変化した。
その象徴が、65年に打ち切られた低消費世帯実態調査である。その時点で461万世帯が「低消費世帯」と認定されたが、それ以降半世紀の間、貧困調査は行われていない。
「人間裁判」と呼ばれた朝日訴訟(当時の生活保護基準が憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」レベルに達していないとして争われた)の提訴が57年だったことも示唆的だ。「人間裁判」は「人間らしい暮らしとは何か」を問うた。しかし、その後の高度経済成長により問いそのものが失効していく。そんなものは、もうわざわざ問われるに値しないとされた。それは、「貧困」が忘れ去られたということと同義である。
難民キャンプと一億総中流幻想
忘れ去られた理由は、単に「世界有数の経済大国でそんなに貧困があるわけがない」という思い込みだけではない。結局のところ、日本社会は「貧困」という概念自体を容易に受け入れられないのだろうと思う。そこには、貧困とはアフリカの難民キャンプの子どもたちのことだという、「生存ラインぎりぎり」に張り付いた貧困観があり、一方に、それと裏腹の関係にあった「一億総中流幻想」(生活は大変だが、あそこまではひどくないから自分たちも中流だという慰め)がある。この一対のイメージが、「先進国」の貧困を問うOECD基準を、頭では理解できるが実感を伴わないものにしている。日本の貧困概念は、半世紀前の段階で停止しているのだ。
「貧困観」の問題が重要なのは、それが単に「貧困」のとらえ方に限らない広がりを持っているためだ。「何が貧困か」という問いを忘れるということは、「何が人間らしい暮らしか」という問いを忘れるということだ。
OECDの相対的貧困の基準を、2008年の厚生労働省の国民生活基礎調査結果に当てはめてみれば、日本における貧困層は、平均世帯人数2.7人で年収224万円以下世帯となる。具体的なイメージとしては、3人世帯で月収20万円程度ということだ。学齢期の子どもを持つ30~40代の夫婦の世帯で月収20万円、あるいは年金暮らしの老夫婦と中年層の独身の子1人という世帯で月収20万円。教育や介護に支障をきたす暮らしであることは、容易に想像できる。しかし、それを「貧困」と名指すかと言えば、それに対しては多くの人々が違和感をもつ。この“間隙(かんげき)”が問題だ。
貧困とは生存ラインぎりぎりの飢餓状態のことだ、という(絶対的)貧困観と、「一億総中流幻想」からすれば、上記のような世帯は、それでも「中流」に分類されてしまう。それは、その家庭の困難が社会的に対応されずに放置されることを意味する。「かわいそうだけど、仕方がない」というよく使われる言い方で処理されるということだ。「貧困」は違う。貧困という言葉には「社会的に対処すべきもの」という含意がある。生存ラインぎりぎりに張り付いた「貧相な貧困観」は、現実に生きる、生活の苦しい人たちを社会的・政策的に放置することを正当化する装置として機能してしまう。
今、求められているのは、貧困観を、(相対的)貧困ラインに「引き上げる」ことだ。別の言い方をすれば、「人間らしい暮らし」のラインを設定することを意味する。社会的・政策的に対応すべきラインを、絶対的貧困(生存ぎりぎり)と「一億総中流幻想」の境目に設定するのではなく、相対的貧困と「人間らしい暮らし」の境目に設定し直すことだ。それが「貧相な貧困観」から脱却する、ということだ。
(後編に続く)