新政権は「貧困削減」を迫られている
この課題はそのまま、新たな政権党となった民主党の政策運営に直結する、と私は考えている。厚労省の国民生活基礎調査をみると、年収300万円未満世帯はこの10年間で約370万世帯増加している。年収300万円以上700万円未満世帯(いわゆる中間層)は約60万世帯の減少だ。総世帯数は約300万世帯増えているが、単身化・少人数化すれば世帯内の相互扶助機能が弱まり、生活の現金依存度が高まるのは明らかだ。非正規化が進む労働市場の現状や、日本の年金水準の低さ、そして上がり続ける社会保険料負担などを考えれば、生活に余裕のない世帯は当然増加していく。先の調査において、「生活が苦しい」「どちらかと言えば苦しい」と答えた世帯が過去最高の57%に上っているのは、人々の実感だろう。その実感は「1世帯が2世帯に分解すれば、それぞれの世帯の所得が低くなるのは当然」という“解説”で消せるものではない。
そして、まさにこの実感が、先の衆議院選挙で政権交代を実現させた原動力に他ならない。逆に言えば、その低所得層の生活状況を改善できなければ、「政権交代」という最大のイベントが終了した今、新政権の支持率は下落する。
では、全世帯の30%を超える年収300万円未満世帯の生活状況が短期間で改善される見通しがあるかと言えば、従来の指標を使うかぎり、その可能性は低い。世界経済が厳しい環境下で、経済成長率は伸び悩むだろうし、戦後最高を記録した失業率が改善される見込みも薄い。個人消費も短期で回復するとは考えにくい。
それゆえに、民主党政権も家計の直接支援を図る政策を並べている。「コンクリートからヒトへ」というスローガンはその宣言に他ならない。これまで「経済成長さえすれば大丈夫」と言っていた「成長力底上げ」路線が頓挫した今、当然の方向性ではある。経済成長はもはや人々の暮らしを立て直す十分条件ではない。
そこで私は、家計の可処分所得の増大について、新政権が、経済成長率や失業率のようにわかりやすい指標を採用すべきだと考える。
国民生活基礎調査では、全世帯の平均所得である556万円以下の世帯は60.9%だった。57%が、「生活が苦しい」と感じている。ということは、年収400万~500万円台の世帯も、大半は苦しんでいる。しかもこうした調査からは、より厳しい若年単身世帯はそもそも漏れている。
こんなに多くの人たちが、生活が苦しいと感じるのは、ぜいたくや謙遜(けんそん)なのか。違うと思う。収入が増えない一方で、世帯による相互扶助機能の弱化や負担増により支出が増えるため、可処分所得が減っているからだ。
だとすれば、民主党政権が生き残る道は、政策効果としての可処分所得の増大を目に見える指標として、人々にアピールすることだ。
立ちはだかる「貧相な貧困観」
そのためにもっとも適切な指標が、OECDの(相対的)貧困率である。3人世帯で月収20万円というのは、余裕のない暮らしの典型だ。自分が病気になっても気軽に病院にかかれない。子どもの塾費用を工面できない。住宅・教育費用に圧迫されて家計のやりくりで神経が磨り減る。老後の不安が付きまとう。ひとことで言えば、病気・失業・家族の不幸・車の故障などなどの「不意の出費」に対応できない世帯だ。生活に追いまくられて一息つくこともできないこの世帯の状況を改善し、一息つける環境を整えること。それが「人間らしい暮らし」の実現ということであり、すべての政治が目標とすべきもののはずだ。当然、欠落を埋めるために必要なお金なのだから、貯め込まれることもなく、積極的に消費にも回る。
ところが、この領域を「貧困問題」として名指した途端に議論の位相が変わってしまう。「貧困問題への対処」と言われても、誰もそれを自分たちの生活が改善していくのだとは感じない。むしろ、自分たちを飛び越して、派遣村に集った人々やホームレス状態にある人たちに過度の手当てがなされるのではないか、自分が苦しみながら納めた税金が垂れ流されるのではないかと想像してしまう。
ここに至って、課題は「貧相な貧困観」に戻る。ここにデッドロックがある。自分たちの生活の苦しさはまぎれもないものと実感されているのだが、その実感に「貧困削減」として応えようとすれば、逆に反発を招きかねない。この実感とイメージ、体と頭の分離。
「貧困」という言葉は、この3年の間にタブーから解き放たれた。それは、日本において高度経済成長期以来ほぼ半世紀ぶりの転換だった。しかし「貧困」という言葉は復活したものの、そのイメージは依然として生存ぎりぎりラインに固着しており、それが貧困問題を正面から認め社会的・政策的に取り組むことを妨げている。その意味で、私たちは依然としてこの半世紀の議論不在のツケに悩まされ続けている。