王様にならなかったワシントン
自由民主党が2012年4月27日に決定した日本国憲法改正草案には、96条で定められた憲法改正の要件を緩和する内容が盛り込まれていた。これにより、憲法96条をめぐる議論が盛んになっている。この議論によって、初めて「立憲主義」という言葉を耳にした読者も多いだろう。立憲主義(constitutionalism)とは、一言で言えば、主権者・国民が、簡単に変えることができない憲法によって、権力者たちの権力行使を統制・管理する統治原理である。
意外に知られていないことであるが、その生みの親はアメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンであると言ってよい。彼は、アメリカ独立戦争(1775~81年。アメリカではむしろ、アメリカ独立革命と呼ばれることの方が多い)の際に、アメリカ植民地軍総司令官として指揮を執り、戦後はアメリカ合衆国憲法制定会議(1787年)議長を務め、さらにその後、アメリカ合衆国初代大統領となった(1789~97年)。
ワシントンが戦った相手はイギリスであったが、当時の世界はイギリス、フランス、スペインの三大王国が競い合う、王国とその植民地の時代であった。アメリカ植民地軍は世界最大最強の大英帝国と戦って勝ち、ワシントンは「アメリカ」という新生大国のトップリーダーとなった。そのワシントンが、当時の世界情勢のなかで、“アメリカ王国”の“初代国王”になることを求められたのは自然なことだった。
しかし、高い教養と人格を兼ね備え、深い思索を重ねていたワシントンは、王制(封建制)に苦しめられ、それと戦って勝利し独立したアメリカが、新しい封建国家(王国)を建設しては自己矛盾になるとして、民主的共和制の国家の設立を説いた。
もちろん、国家である以上、それを統治する者は不可欠である。そこで、世襲の国王に代えて、人民が「入れ札(選挙)」で選ぶ大統領を置くことにした。さらに、大統領に就任したワシントンは、当時の憲法上は多選が禁止されていなかったにもかかわらず、自らの意思で、2期8年で職を退いた。ここから3選禁止がアメリカの慣行となり、後に憲法上の規定となった。
望みさえすれば、ワシントンは終身大統領になることも、その地位を親族に「世襲」することもできた。だが彼はそれを行わなかった。だからこそワシントンは、アメリカ建国の父として、今でもすべての人に尊敬されている。
「人間は不完全な存在」という認識
この歴史的エピソードで大事な点は、このとき、それまでの諸国の国王のような「神に選ばれた者」「神の子」「完全無欠な者」が統治するのだというフィクションが捨て去られ、不完全な人間たちのなかから選ばれた者が国家統治の任に当たる、ということが前提になったことである。人間は不完全なものであるという事実が、政治制度の基本認識におかれるようになった。これこそが、立憲主義のよって立つ認識なのである。また、独立戦争のさなかに発せられたアメリカ独立宣言(1776年)も重要だ。この宣言において、国家の主権は人民(大衆)に帰属すること、国家という組織は国民を幸福にするために作られ、国家がその期待に反したときは、人民にはそれを作り直す権利があることが確認されたのである。さらにこの精神の上に、主権者・国民から権力を託された者たちに対する指令書として、アメリカ合衆国憲法(1788年、権利章典部分は91年)が発せられた。アメリカの統治権力を預かる者たちは、独立宣言の精神に立ち、憲法に記された権力の配分に従って仕事をし、憲法で保障された人民の人権を侵害してはならないことになった。こうして、アメリカ合衆国において立憲主義体制が確立されたのである。
アメリカの歴史を離れて、立憲主義について整理してみると、次のようになる。
立憲主義を貫いている認識は、人間が不完全な存在であるということ。同時に、人間は国家という共同生活によってしか生きていけない存在であるということだ。
不完全な人間が集まり、円滑に共同生活を行う上で必要な規制として、法律が必要になる。たとえば、「借りた金は返さなくてはならない」と誰もが分かっているにもかかわらず、借りた金を返さない者が絶えないからこそ、古今東西、人間社会には「民法」がある。さらにプロの商売人同士の取引を規律するために、民法の修正形としての「商法」がある。その上で、民法・商法に関する紛争を法廷で公正に解決するための手続き法として「民事訴訟法」がある。
あるいは、他人を殺したり放火したりしてはいけないなどということも、説明されなくても誰だって分かっている。しかし、不完全な人間同士が共存しているこの社会で、そのような犯罪が絶えないことも事実である。そこで、あらかじめ犯罪とそれらに対応する刑罰を明示して、まず犯罪を予防しようとする法が「刑法」である。そして、不幸にして犯罪が行われてしまったと思われる場合に、公正な手続きで事実を明らかにして必要な責任を追及し、社会秩序を回復するための法が「刑事訴訟法」である。
憲法は国家を統制するためにある
以上、人間社会に必要な法律を五つ、挙げてみた。いわゆる「六法」のうち、憲法を除く「五法」にあたる。ところが「六法」のうち、「憲法」だけは、これら「五法」とはまったく目的が異なる。「五法」のように国民を規制するのではなく、逆に国家権力を統制し、権力の乱用から国民の人権を守るという役割を担っている。
普通の法律は、国会が制定し行政府と司法府が執行して、国民の行動を統制して社会秩序を維持する。つまり国家権力が国民を統制するものである。これに対して憲法は、国家権力を国民が統制するものだ。
古来、「絶対的権力は絶対的に堕落する」と言われているように、本来的に不完全な人間が預かる権力は、常に乱用される危険性を内包している。そこで憲法は、国家統治の組織と作用の基本法といわれるように、まず、国家権力を担う機関の組織を定め、それぞれへの権力配分を定める。その上で、それらの権力が乱用された場合に、主権者・国民が憲法違反を指摘することで自らを守ることができるように、人権を保障しているのである。
国家権力を統制することを目的とする憲法には、大きな特色がある。いわゆる「硬性」という性質である。「改廃(改正あるいは廃止)しにくい」ことを指す言葉だ。
国家権力は、事実としてその国で最強の実力である。憲法はその最強の実力を、いわば紙に書かれた言葉だけで国民に対して服従させようとしている。であるならば、国家権力がその統治の手段として日常的に改廃している法律とは異なり、憲法は国家権力によっても容易に改廃できないようにしておく必要がある。そのために世界各国では、憲法には「最高法」という形式とともに、容易に改廃できない「硬性」という特色が与えられている。自由と民主主義を基本とする国の憲法では、国会による憲法改正の発議には「3分の2以上」などの特別多数決を条件とすることが通例なのである。
より良い社会を実現するために権力を託された政権が、国会の過半数を用いて法律を改廃し、それを手段として社会の状況を改善していくのはもちろん正当である。しかし憲法は、権力の手段ではなく、その権力を統制するためのものである。法律と同じように、国会の過半数により容易に改廃され得るのでは、権力に対する統制にならないのである。
自民党改憲草案は「邪道」
以上のような立憲主義の意義や憲法の目的、特色から見れば、自由民主党の日本国憲法改正草案にはおおいに問題がある。同草案では、国会による憲法改正発議要件を、現行憲法の定める「両院それぞれの3分の2以上」から、「2分の1以上」に引き下げることを提案している。自民党は、その理由として次の三つを挙げている。
(1)現行憲法は改正されるべきであるが、なかなか改正されない。その大きな理由が手続き上のハードルの高さにある。(2)過半数の国民が改正を望んでいるにもかかわらず、国会の一院の3分の1が反対しただけで改憲が阻止されるのでは、「多数決」ならぬ「少数決」というべきで非民主的である。(3)改正発議を容易にすることで、国民投票、すなわち国民が判断を下す機会を増やし、憲法を国民の側に取り戻せる――というものだ。