確かに、憲法も「不磨の大典」ではなく、不完全な人間がいまだ見たことのない将来のために作ったものである以上、時代状況の変化の中で規範として不都合が生じることはあり得る。だからこそ、現行憲法でも96条で改正手続きが用意されている。しかしこの三つの理由は、すべて間違いである。
まず、(1)の「ハードルが高すぎる」という主張だが、硬性憲法である以上、改正の条件が法律の場合より厳しいのは当然である。96条は、世界の中で特別に厳しいものではない。にもかかわらず、日本で異例の長きにわたって憲法改正が行われなかった原因は、むしろ自民党の側にある。つまり、「改憲」を党是とする自民党自身が、合理的な提案を示して国民を説得する努力を怠ってきたことである。そのくせ、いわば憲法「破壊」のような改憲案を示して、憲法からその本質である「硬性」を奪おうという提案を行うのは、邪道以外の何ものでもない。
次に、(2)の「非民主的」との主張だが、これも当を得ない論理である。民主主義は、単純な「多数決」民主主義に加えて、「立憲」民主主義という方法をあわせもっている。個性の自由を前提とする民主主義社会では、一次的には多数派が決定権を持つ。しかし、選挙で権力を握り、合法的に独裁を強化したドイツのナチス党などの歴史を持ち出すまでもなく、民主主義の下で、多数派が凶暴化して少数派の人権(人格)を蹂躙(じゅうりん)する危険性は常に存在する。そのために、民主主義の安全弁としての第2原理、立憲主義が確立されたのである。
96条改憲で何が得られるのか
憲法は、革命や敗戦など、歴史の分岐点ともいえる重要な時期に制定されたものだ。そうした特別なときに、主権者・国民が深く納得して受け入れた大原則なのである。だからこそ、一時の興奮に任せた相対多数決では憲法は改変させないという原則がある。確かにこれは紛れもなく、形式的には「少数決」である。だがそれが気に食わないというのであれば、選挙で選ばれていないたった15人の裁判官が、国会で可決された法律を無効にできる違憲審査制も、否定されてしまうことになろう。(3)の、改憲要件を緩和することで憲法を国民の側に取り戻すというのも詭弁(きべん)である。憲法96条の改正で改憲発議が容易になれば、政権交代のたびに国民投票が行われるようになり、国民にとっては煩わしさが増すだけである。
そもそも、自民党が「憲法を改正すべき」と主張する場合に、その変えたい内容が例えば、政治家や公務員を縛る憲法を国民一般を縛るものに変えることだったり、海外派兵を憲法の制約なしに行えるようにすることだったり、表現の自由を規制しやすくすることだとしたら、筋違いな話である。国家権力を統制する憲法の役割そのものを否定してしまうことになるからだ。
最後に、「過半数の国民が改憲を望んでいる」という事実も存在していないことを指摘しておきたい。存在するのは「国民の過半数が改憲論議はタブーではないと認めている」という事実だけである。
96条を改悪し、改憲条件を緩和することで得られるものは、憲法に拘束されているべき政治家たち(特に政権与党)が、憲法から自由になりやすくなることだけである。