「興味のない人」とどうやって語り合うか
衆院選の投票率の低さには、少なからずショックを受けました。その理由について考える際、頭に浮かんだのが「せんきょCAMP」というワークショップの参加者の発言でした。そのワークショップは、有志が集まってフランクに政治の話をすることを目的に開かれた場です。衆院選前、そこに参加した複数の人が、帰り際に「普段、自分のまわりでは政治の話をできない。この場でいろいろと話せてよかった」という感想を述べていました。投票率の低さと、政治について話をする場がないこと。この二つの問題は、密接に結び付いているように感じられました。TPP(環太平洋経済連携協定)や憲法改正など、世間で論じられる課題は数多くあります。しかし結局、その課題について問題意識を持っている人たちがどんな活動をしても、それが“政治的な話題に興味を持たない人”に広がっていかない限り、結果にはつながらない。つまり、政治に興味を持つ人たちが、「外」とどう向き合うかが問題なんだなと感じました。
そう思って始めたのが、「ぽりト~ク」というプロジェクトです。
ぽりト~クの趣旨は、“政治を語るための新たな作法”を身に付けること。私たちは、普段の生活の中で政治を語る機会が非常に乏しく、あったとしても特定の政党や政治家を否定・批判したりすることで完結してしまうことが大半です。そうではなく、友人や知人との間で、ごく当たり前に、政治について語り合うにはどうすればいいか。政治は自分とは無縁だと思っている人の関心を、どうやったら引き出せるのか。そのためのコミュニケーションスキルを参加者同士で磨いていこうというものです。
具体的にはまず、自分の中に「政治の話をしたいAさん」と「政治に関心を持たないBさん」の2人を想定します。その2人の間で会話を作り、AさんがBさんに対してどうやって政治や経済の話を切り出していくかをシミュレーションします。そして、その会話を参加者全員で吟味していきます。
しかし、何度かやってみて、想定外の問題にぶち当たりました。このシミュレーションの意図や目的を共有してもらうのに毎回、かなりの時間がかかってしまうのです。なぜ、ぽりト~クをやるのか。その目的が、参加者に伝わらないのです。
もともと政治運動は、特定の問題に対して、同じ意見を持つ人をどれだけ増やすかが目的です。そこに集う人たちは、賛同者ではあっても対話の相手ではありません。けれども、TPPや原発など、どんな問題であっても、興味のある人たちだけで話をしているだけでは、その問題について“興味のない人”には伝わりません。これでは、問題はいつまでたっても解決しないので、ぽりト~クでは、興味のある人たちがいかに「外」に働きかけるかをテーマに会話をしてみましょう、と言うわけです。
こうした目的から、政治について話をしたいAさんと政治に関心のないBさんとの間での会話をシミュレーションするのですが、これがなかなかうまくいかない。ともすると、すごくものわかりのいいBさんとの会話を作り上げてしまう。自分の中で複数の考えを吟味する対話(自己内対話)を作ろうとしても、それができないのです。
大人になることは、自己内対話を切り捨てること
なぜ自己内対話ができないのか。この問題を、私はよくいじめにたとえて考えます。学校の中でいじめが起こった場合、加害者と被害者以外の大多数の子は第三者になります。この第三者の子たちがいじめを目撃した場合、おそらく、その子たちの中に、ある葛藤が生まれます。
一方では、いじめの場面を見てまずいんじゃないか、先生に言った方がいいんじゃないかと思う。だけどもう一方で、下手に介入すると、自分のところにトバッチリがきちゃうかもしれない……。このように、二つの声を自分の中に持つことになります。
自分の中に、この二つの相矛盾する声を持つのは、人間にとっては非常に苦しい状態です。そのとき、子どもはどうするか。一番簡単な解決法は、「あの子の問題」にしてしまうことです。自己責任にしてしまう。あの子の笑い方が気持ち悪いからいじめられる。本当に嫌だったら、嫌だって言えばいいんだ。そう自分の中で結論付けたら、自分の問題ではなくなり、苦しい状態から抜け出せます。
でもそのとき、この子は二つのものを切り捨ててしまいます。一つは、同じクラスの一員としてのその子(いじめにあっている子)。そして、もう一つは自分の中にあるもう一方の声。つまり、自分の中の多様性を切り捨てているのです。子どもは、成長の過程でこうした声を自分の中にたくさん生み出します。その際、こうした声をパッパッと切り捨てていけるような、そういう訓練を積んでいくのが大人になることだと言われています。
数の論理で誰が幸せになりますか?
世の中では、成長の過程で無数の声と向き合うことは大事なことだ、と思われてはいません。むしろ、そんなところでモタモタしていると、人生のさまざまなイベントに乗り遅れてしまうぞ、という風潮すらあります。そうすると、だんだんと自分の中の声に対して不感症になり、切り捨てた感覚すら持てなくなってしまいます。結果、自分の意見だけで凝り固まってしまい、それ以外のものを受け入れられなくなります。逆に、自分の中に多くの意見を持っていれば、そこで対話することが可能になります。つまり、自己内対話ができない人、自分の中に異なる意見をちゃんと立てられない人は、他人との間で意思の疎通をはかることができないのです。
こうした切り捨てを続けると、対話ができず歩み寄る余地もなくなってしまうので、結果的に数の論理でしか物事を進められなくなります。何かを決めようと思ったら多数決をするしかなくなるわけです。これが今、国会で起きていることだと思います。それを外から見て「けしからん」と思うかもしれませんが、じゃあ自分は対話できているのか。自分はできないのに、国会だけができるということはあり得ません。国会にいる議員は、国民の中から選ばれているわけですから、そこには民度が反映されているわけです。
私たち一人ひとりが、自分の中の葛藤を切り崩していった結果、数の力による民主主義が生まれ、現状では「勝てば官軍」という理屈でしか物事が進まなくなっています。けれど、それって、いったい誰を幸せにするんでしょう?
私は、現在の政治不信の背景には、社会不信があると思っています。この社会で自分の投げたボールを受け止めてくれる人がいないという感じが、どうせ何をやってもムダだという諦念につながっている。そうだとすると、必要なことは、自分の投げたボールを受け取ってもらえるという実感が、その人の中に育つようなことをする。つまり、ボールを投げた人の意見やつぶやき、愚痴を周囲の人がしっかりと聴くことなのではないでしょうか。
それは結局、これまで切り捨ててきた“対話”を増やすことにほかなりません。
劇場型政治のサイクルから抜け出すための「ぽりト~ク」
では、これまで切り捨てられていた対話を増やすためには、どうすればいいのでしょうか。ともすれば面倒に思える対話について、実は対話とは「面白いものだ」という価値観に変えていければいいのだと思います。たとえば、自分の中の対話を増やしていくと、それによって考えの幅が広がったり、意見を異にする人ともコミュニケーションがとれたりするようになります。これによって、自分の幅が広がり、持ち札が増えることになります。この点を、人としての豊かさと捉えたり、人としての評価に結び付けたりできるようになれば、対話がポジティブなものに受け取られるようになります。
そうした見方や評価ができるようになれば、人々はわかりやすいキャッチフレーズで支持を訴える「劇場型政治」に反応しなくなります。なぜなら、劇場型政治は人の意見を聞かずにズバッと言うのがカッコいい、という価値観だからです。価値観が変われば、そこで初めて、現在繰り返されている劇場型政治のサイクルから社会が抜け出せるのではないかと思います。