◆憲法解釈がなされる「二つの場面」
安倍晋三政権は今、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が提出した報告書を受けたのち、「集団的自衛権の行使は日本国憲法9条の下で認められない」とする現在の政府解釈を、閣議決定によって変更しようとしています。憲法解釈を閣議決定という形式で変更すること自体も異例ですが、その内容についても憲法9条がもつ規範としての力を無くすに等しい変更です。このような手法でやってはいけないことです。憲法は、日本の法秩序のなかで一番上にある法ですが、そのことを軽んずる異常事態といえます。
そもそも憲法解釈とはどういうものか。憲法解釈がなされる場面として、(1)「法律の制定」と(2)「法的紛争の解決」という二つの場面をみておきましょう。
まず、(1)「法律の制定」という場面ですが、憲法で立法権は国会がもつと定められています。国会へ法案が出されるのには二つ方法があって、国会議員が法律案を発議する議員立法と、内閣が提出する閣法です。合憲の法案として出されるのですから、一定の憲法解釈のもとで、「法案は憲法に違反しない」という判断をしているといえます。
閣法については、閣議に付される前に、あらかじめ内閣のリーガルアドバイザーである内閣法制局(あとで説明します)が、合憲性を含めて中身を綿密に吟味しています。その際、前提にしているのは、政府による憲法解釈です。
法案が国会に出されると、その内容が憲法と適合しているかなど、今度は国会でチェックに付されます。適合していないとなれば修正されたり、場合によると廃案になったりすることもあります。その際に前提にされているのは、国会による憲法解釈です。
次に(2)「法的紛争の解決」という場面について、国会での議論をクリアして法律が成立したとしても、のちに合憲性が裁判所で争われることもあります。そして裁判所が一定の憲法解釈の下で、「この法律は憲法に違反している」と判断することもあります。このように憲法適合性を審査する権限を違憲審査権といいます。
最近の例ですと、2013年9月には、法律上の夫婦の子であるかそうでないかで、法定遺産相続分に2倍の格差をつける民法の規定に対して、最高裁判所が違憲判断を下し、国会がこれを受けて民法を改正するということがありました。
◆明治憲法より古い「内閣法制局」
憲法が違憲審査権を裁判所に認めていますから、最終的な憲法解釈権は裁判所にあるといえますが、ただ、今、問題になっている集団的自衛権のようなテーマは、そもそも誰かの具体的な利益が侵害されたと捉えることが難しいために訴訟になりにくく、裁判所が違憲審査をする機会自体が少ないといえます。
さらに、違憲審査をする機会があるとしても、国家の行為のうち極めて高度な政治性をもつものは裁判所の審査の対象にならないとする統治行為論という理論があり、裁判所は集団的自衛権のような問題について、憲法判断を避ける可能性がとても高いのです。
そのため、安全保障政策の関係では特に、実際のところは政府の憲法解釈が大きな意味をもってきました。そこで重要な役割を担っているのが内閣法制局です。内閣法制局は、内閣の附置機関で、具体的には、大きく分けると、内閣や各省庁に法律問題についての意見を述べる意見事務と、法案作成過程で妥当性を審査する審査事務の二つの仕事をしています。法制局の歴史は日本国憲法、そして大日本帝国憲法よりも古く、発足したのは大日本帝国憲法の公布に先立つこと4年の1885(明治18)年のことです。
審査や調査に当たる参事官は、各省庁から出向してきている法律的思考に長けた人たちです。現在の小松一郎長官が任命される前は、部長、次長、長官と内部で昇進していくという、一種の自律性が事実上認められていました。
内閣法制局は内閣に属していて政治の世界にありますが、彼らの考える「正しい法の解釈」を示すことで、ある種の法の世界の矜持(きょうじ)を保ってきたといえます。政治もこれまで、法の専門家としての内閣法制局の権威への敬譲を示してきました。
ところが安倍首相は13年8月、これまでの慣例を破って、新しい内閣法制局長官として局内の人(次長)ではなく、外務省出身の小松氏を任命しました。その後の小松氏の言動を見ても分かるとおり、政治的に安倍政権に近い人をすえたわけです。政治にいわれるがままではないからこそ認められてきた、内閣法制局の権威性が揺らぐ危険があります。
◆閣議決定で「集団的自衛権容認」は無理
こうした布石を打ったうえで、安倍政権は閣議決定で憲法解釈を変更しようとしています。冒頭にも申し上げたとおり、これは形式としても異例ですが、もっと問題なのは、その内容が憲法9条を無くすに等しい、きわめて重大な変更であるということです。私は、憲法尊重擁護義務を負った内閣が閣議決定でできることの限界を超えていると考えています。
順を追って説明しましょう。
戦後、長らく「自衛隊は違憲か合憲か」をめぐって議論が続いてきました。憲法9条の2項で「戦力の不保持」が定められているためです。政府の解釈は、「自衛隊は2項のいう“戦力”にはあたらないから合憲である」としています。注意を払いたいのは、「9条は単に理想をいっているだけだ」と、9条を法として認めなかったわけではない点です。法として認めたうえで、自衛隊は憲法の否定する戦力=軍ではなく、憲法以前にどの国も固有の権利としてもつ「自衛権」に基づく「自衛のための最低限度の実力」である、という理屈です。でも今、政治がしようとしていることは、「9条を法として認めるのをやめよう」ということに他なりません。
政府は、自衛権を行使できる条件として「わが国に対する急迫不正の侵害があること」「これを排除するのにほかに適当な手段がないこと」「必要最低限の実力行使にとどまるべきこと」を示してきました(自衛権発動三要件)。一つ目と二つ目を満たさない場合には、自衛隊を出動させられず、そして出動させる場合にも自衛隊にできる内容には限界が課されています。
自衛隊は、自国の防衛のための実力なのですから、自国への攻撃がないのに他国を守るために戦うという「集団的自衛権」は、政府の憲法9条解釈の理屈からは出てこないのです。ましてや、海外で戦争をする「集団的自衛権」は、9条を素直に読んでも、当然に無理です。これをできるとするには、まったく別の憲法規定が必要というべきです。
限定的な行使容認ならいいのだ、という議論もありますが、国外での戦争に参加するとなれば、同盟国の意向や戦争の状況との関係があるので、日本の都合だけで限定を課すことは困難ですし、「必要最低限度」がどれくらいかも確定できません。それに攻撃を受けた国からしたら、日本が攻撃をしかけてきたというに等しいわけですから、わが国への「急迫不正の侵害」を「排除する」という問題とは、状況が大きく変わります。
◆「行使容認」で血を流すのは国民
集団的自衛権が行使できるとする議論は、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」を定めた憲法9条をただのお飾りにしてしまうに等しいのです。自衛隊や集団的自衛権については、1980年代には完全に解釈が固まっており、確定性が非常に高いものです。それを前提にいろんな法律もできています。それを一内閣が閣議だけで変更できるのであれば、憲法に改正手続きが存在すること自体が否定されてしまいます。
憲法の目的は政治を縛ることですから、為政者にとっては常に目の上のたんこぶです。安倍政権は、このたんこぶから自由になりたいという“憲法軽視”の姿勢を露骨にみせています。しかし70年間、営々と積み上げられてきた憲法秩序と平和主義を、安易に投げ捨ててしまっていいのでしょうか。どうしても集団的自衛権行使の容認が必要だというなら、憲法を改正すべきです。それなら国民がじっくり議論し、よく判断する機会が与えられることになります。