福島の被災地へと動いた心
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が起こった時間に私は医師として東京都内の病院にいた。ちょうど回診中で、骨髄移植中の患者さんと病室で他愛のない話をしていた時だった。突然のごう音と激しい揺れ。その場に立っていられず、骨髄移植用の大型空気清浄器が倒れないよう支えるのに必死だった。
揺れが収まった後、スタッフと共に生命維持に必須な機器が損傷、停止していないか急いで見てまわり、次の余震に備えた。ひっきりなしに続く余震と、次第に明らかになる甚大な被害。もちろん一緒ではないのだが、「あの時にそっくりだ」と感じていた。
あの時――阪神・淡路大震災が起きたのは1995年1月、私が中学1年生の冬だった。生物のリポート発表をまとめるのに、四苦八苦していたのを覚えている。大阪市内にあった家の被害はそれほどではなかったものの、すさまじい地鳴りと、食器や家具が壊れる音だけは妙に耳に残っている。
そんな被災経験もあり、医師として働いている以上、東日本大震災後はどこかで医療支援に携わりたいと思っていた。おそらく同僚たちも、みんなそう思ったに違いない。2011年の4月からは大学院生として東京大学に戻り勉強する予定だったが、「福島の被災地へ行ってみる気はないか?」と上司に誘われ、迷わず「はい」と答えていた。そうして4月初め、自家用車を運転して福島県相馬市に向かったのが、すべての始まりだった。
相馬市に到着後、支援が滞っていると聞いて南相馬市へ向かったが、津波による道路や建物の損壊に加え、人通りが非常に少ないのが印象的だった。真っ暗な闇の中、町の中心部で黄信号が不気味に点滅を続けていた光景が、この町の最初のイメージだった。かろうじて営業している焼肉店があり、数日間はそこへ夕飯を食べに通って生活した。結局、その焼肉店はつぶれてしまったのだが、店のご主人は今どうしているのだろうか。
そんなこんなで南相馬市、相馬市で医療支援を始めることになった。市内の病院で外来診療や当直の手伝いをしたり、処方せんを書いたり、避難所を巡回したり。その頃、東京電力福島第一原子力発電所より半径20~30キロ圏は緊急時避難準備区域に指定され、圏内にある病院では入院が制限されていた。そのため30キロ圏外にある病院に必要な医療資源をもらえないか、寄付をもらえないかと連絡して回ったり、南相馬市で唯一産婦人科を続けた高橋享平先生(高=はしごだか)に頼まれて、不足していた線量計やガラスバッジなどを調達したりしていた。
放射線と関わるきっかけ
そんな私が、放射線に関わるきっかけとなった出来事が二つある。一つは地元の人に放射線について聞かれ、勉強会を始めたことだ。爆発事故を起こした福島第一原発から放射性物質がばらまかれ、それが風に乗って飛散して雨で落ち、そこから放射線が発せられている。当時、そのことをきちんと理解している住民は少なかった。
安全か?危険か? 「100ミリシーベルト以下の外部被ばくなら、ただちに健康に影響はない」という説の是非を含め、実際の線量に基づいて深く考察することはできなかったが、放射線と放射性物質の違いぐらいは説明できた。小さく始まった勉強会は、1~2カ月の間に急激に規模が大きくなり、全市をくまなくめぐって話をすることになった。
何をもっと話すべきだったのか? どう話すべきだったのか? あの時の限られた情報量でどう対処すればよかったのか? 今から思い返してもよくわからないし、うまくできる自信はない。ただ、顔面神経まひになるぐらい、毎日必死に話をしていただけだった。被災地支援を行っていた星槎グループ(せいさグループ 学校法人、社会福祉法人等を主体とする企業集合体)のスタッフの助力がなければ、実現することは不可能だっただろう。本当に感謝している。
二つめは、内部被ばく検査に関わるようになったことだ。
自然界にばらまかれた放射性物質を、体内に取り込むことによって被ばくすることを「内部被ばく」と呼ぶ。11年7月、南相馬市が独自にホールボディーカウンター(WBC)という内部被ばく測定器を導入し、住民の健康を守るための事業に乗り出したのである。福島第一原発から23キロ北にある南相馬市立総合病院において、金澤先生、及川先生、根本先生と協力して検査を開始した。
誰も使い方がわからない中、みんなで試行錯誤しながら何とか機器を動かした。結局、いろいろなミスや機器の不備があり、正確にデータを出せるようになるのはその数カ月後、東京大学の早野龍五先生が助けてくれたおかげだ。その他にも、福島県立医科大学の宮崎先生や、コンピューター関連機器を取り扱うサードウェーブ社の社員、多くの人に助けていただいた。
3年間の内部被ばく検査で
以来、約3年間にわたって、WBCで住民の内部被ばく検査を行った。すべての結果が出尽くした訳ではないが、幸い住民全員が爆発的な内部被ばくをしたわけではないことがわかった。今後も継続的に食料品や子どもたちの検査を実施し、放射能量が上昇傾向にないか確認する必要はある。しかし南相馬市の住民についていえば、その体内放射線量は1950~60年代の大気中核実験時における日本人の平均体内放射線量と遜色ないか、むしろ少ない。
放射性物質は、いくつかの特定の食材に、集中的に蓄積することがわかってきている。なのでそのような食べ物だけ検査をしっかり行い、未検査品を継続的に摂取することを避ければ、日常生活上の内部被ばくも非常に低く維持できることも判明した。現在なら出荷制限がかかっている一部品目を除けば、地元で流通している食料品を摂取したり、地元産の農水産物を継続的に摂取しても、原発事故によってばらまかれた放射性物質が体内に入ってくることはほとんどない。
このようなことが明らかになってきたものの、内部被ばく検査をとりまく状況は大きく様変わりした。開始当初は翌年の春まで予約がつまっていたが、今では多くの大人たちが検査には来ない。県内にようやく40台以上のWBCが整備され、自由に検査を受けることができるようになったが、「検査を受けたい」という声がほとんど聞こえてこなくなったのだ。
「現状に慣れてしまった」と、表現すればよいのだろうか。それに対して南相馬市は、小・中学生の検査を学校健診に組み込み、継続的な内部被ばく検査が担保されるようになった。しかし大人の検査をどうするかは、市町村単位で対応が異なり、しっかりとした方向性はまだ見えないままでいる。
検診率が低下したぶん、放射線に対する知識や情報が十分に共有されるようになったかというと、それもまた違うから悩ましいところだ。放射線教育などもまだまだ充実させる必要があり、今も地元の学校と協同して勉強会を少しずつ続けている。
今後も続く浜通りへの想い
私は原発災害がもたらした、最も大きな被害は「孤立」と「自信の喪失」にあると思っている。避難などによって物理的に人と人を引き離したうえに、放射線に対する考え方や感性、知識の差によって感情的に人々を大きく引き裂いた。社会的、経済的、精神的、肉体的、物理的、何でもよいが「孤立」は人が生きて行く力を奪う。それも突然にではなく徐々に、だ。そして自分の故郷、身体、健康をややもすれば否定されてしまうことで、自我や尊厳のようなものを傷つけられてしまった。原発災害が起こり、不要な被ばくが起きてしまったことは確かだ。