1996年のアトランタ・オリンピックの競泳日本代表選手だった井本直歩子さんは、現在、国連児童基金(ユニセフ)の教育専門官として、内紛が続く西アフリカのマリ共和国の子どもたちの教育支援に携わっている。「世界一」を目指す情熱を、競技生活から途上国の教育現場へと注いで奔走する井本さんが、オリンピックの夢の先に広がった紛争地支援への思いを語る。
マリでのとある1日のスケジュール
朝、6時起床。暑くならないうちに、家の近所を軽くランニングする。終わるとすでに汗だく。シャワーを浴び、仕度をして下の階のキッチンに下りると、「待ってました」とコックさんがエスプレッソのボタンを押してくれる。
コックさんのジャン(Jean)はこの家に移り住んだときにハウスメイトたちがすでに雇っていた人で、めちゃめちゃ腕がいい。私はお料理するのが好きだから、今までどこの国でもコックさんを雇ったことはなかったのだけれど、仕事から遅く帰ってきて、バタンとベッドに倒れ込みたいところでおいしいご飯ができているというのは、思った以上に極楽で、世の中のワーキングママに叱られそうだ。
目の前をニジェール川が流れるプール付きの庭を眺めながら、エスプレッソとともに、シリアルと作り置きのフルーツサラダを食べる。今はマンゴーが旬で、そこらじゅうの木から、重たそうにぶら下がっている。今日も暑くなりそうだ。マリの首都バマコは今、最高気温40度前後で、あと1カ月もすると45度くらいになる。外には3分と立っていられない。乾いているけれど、むぅっとした熱い空気で息ができなくなりそう。
朝8時、出勤。自分で運転。
オフィスに着いて、一通りあいさつを交わすのだが、マリのあいさつは長い。
「元気?」
「元気です。あなたは?」
「元気。あなたの家族は?」
「アッラーの神様のおかげで皆元気です。あなたの家族は?」
「アッラーの神様のおかげで元気です」
「あなたの奥さんは?」
「奥さんも元気です。あなたの奥さんは?」
「元気です。あなたの子どもたちは?」
「子どもたちも元気です……」
面倒くさいが、実はこのあいさつがとても大切。「元気」以外の返事は聞いたことがないけれど、道端で見知らぬ人に道を聞くときも、「元気ですか」から始めなければならない。
同僚とあいさつを交わし、コーヒーをいれて飲みながら、メールと1日の予定をチェックし、To Do Listをこなしていく。今日は、北部の平和教育プロジェクトを行うNGOとの契約の査定会議、その後、教育省で平和教育を盛り込んだ教員マニュアル策定の計画会議。戻ってから、オフィスの近くの学校を2校モニタリング。エボラ出血熱対策の啓蒙活動と手洗い用の洗浄キット配布をしたので、ちゃんとできているかを確認。私が行くと、子どもたちは見慣れない外国人に大騒ぎで、将棋倒しが起きそうで心配になった。
まあまあの手応えでオフィスに戻り、お弁当(ジャンに作ってもらったものを冷蔵庫の中からちょっとずつタッパーに入れてきた)を頬張りながら、メールを消化。ドナー(支援国政府)向けの報告書を書くなど、バタバタと走り回っているうちに、あっという間に夜の7時。
家に帰って、(作ってもらってある)ご飯を食べ、テレビのニュースを見ながら、また少し仕事。深夜就寝。
紛争地での被害者支援に携わるために国連を志願
こんなことをもう10年以上やっている。2003年にイギリスの大学院を修了してすぐ、日本にある国際協力機構(JICA/本部・東京)のインターンとしてガーナのへき地に赴任した。その後、内戦後のシエラレオネ、ルワンダなどを経て、07年からスリランカの国連児童基金(UNICEF;ユニセフ/本部・ニューヨーク)に転職した。JICAでもたくさんのことを学んだが、私の興味はいつも紛争の被害者への支援にあったから、最前線で働ける国連を志望したのだ。当時のスリランカは30年ほど続いた内戦の最中で、紛争が激化した08年、上司に懇願して北部の国内避難民キャンプの支援に行かせてもらった。キャンプには20万人ほどの人が文字通り「閉じ込められて」いて、その中で仮設の学校を再開させるために奔走した。
スリランカの内戦が収束すると、10年にカリブ海のハイチで死者22万人の大地震が起きたため、ハイチへ異動になった。異動と言っても、希望者が多いので競争でポストを勝ち取らないといけなかったけれど。首都ポルトープランスは、壊滅状態だった。
11年の東日本大震災の直後には、日本ユニセフ協会の助っ人で、宮城県と岩手県に入った。避難所で子ども専用の遊び場を作ったり、仮設の幼稚園や保育所の設置の準備をしたりした。
そして、ハイチで3年ほど過ごした後、14年、フィリピンのタクロバンの台風被害支援を経て、現在に至る。
なんてサクサクと書いてみたが、はたからみると相当変わった、猛者(もさ)のような経歴なんだろうとは、日本に帰ると思う。普段は周りがみんな同じような経歴なので、「普通」にしか感じないのだけれど。アフガニスタン、イラク、シリア、ソマリア等を経験している人たちに比べたら、私なんて優雅に暮らしてきた方だ。これ、本当の話。
競泳生活で培ったあきらめない心と最高の結果を求める信念
私が世界の発展途上国の災害緊急支援を渡り歩く国連職員であるだけでなく、さらにもっと「変人」扱いされる理由は、その前の人生がスイマー(競泳選手)だったということだ。14歳から日本代表で海外遠征を繰り返し、1996年、20歳でアトランタ・オリンピックに出場。2000年のシドニー・オリンピック選考会で引退するまで、プールの底のT字ラインを1日5時間、行ったり来たりして過ごした。
3歳から23歳まで泳いでいたから、身体が頑丈に育ったことを、今、心の底から感謝している。そのおかげでめったに風邪を引かないし、あまり寝なくても何週間も過ごすことができる。周りの人たちはというと、しょっちゅう風邪を引いたり、マラリアにかかったりしているのに。私も一度だけデング熱にかかったことはあるし、最近は、お腹に寄生虫がいるような症状はあったけれど、放っておいてお酒もガブガブと飲んでいたら治った。
私は今ではもう水泳をしていたときの夢もめったに見ないし、大きなプールを見ることさえ年に1回くらいしかないのだけれど、私の皮膚や骨の奥に残っているのは、絶対にあきらめないこと、そしていつも最高の結果を求めることだ。援助の世界は結果を明確にはかることが難しいし、私なんてまだまだ微々たる貢献しかできていない気がするけれど、この世界でも「世界一」を目指すことを忘れないようにしたいと思っている。弱音を吐きそうになったら、アトランタ・オリンピックの会場の雰囲気を思い出すようにしている。
昔、世界のトップスイマーになりたいと爪の先まで考えたほどのパッションが、今では途上国の教育現場に向けられている。とはいっても、「助けよう」などという気持ちではない。世界中の何億人という子どもたちが、たまたま生まれてきた場所が悪かっただけで、学校に行けなかったり、恐怖に怯えて暮らしたり、戦火から逃れながら生きたり、身を売ったり戦争に行ったりするしか選択肢がなく、夢を持てずにいる現実に耐えられないからだ。
私は何でも与えられて育ってきた。小さい頃から体が大きく、愛情を多分に受けてすくすくと育った。