ミス・ユニバース日本代表へのバッシング
2015年3月12日、ミス・ユニバース日本代表に、長崎県出身の宮本エリアナさんが選ばれた。ところが彼女が、日本人の母とアフリカ系アメリカ人の父との間に生まれたハーフだったことで、ネットを中心として、「どこの国の代表だと思っちゃう」「彼女の顔はどう見ても外国人」「日本代表ではなくアメリカ代表に見える」「ミスユニバースジャパンなのに、ハーフとかダメだろ」などといったバッシングが起き、海外メディアからはこれが差別的であるとして批判された。彼女の父ブライアントさんは、こうしたことについて、「娘が幼い頃からイジメにあって、つらい思いをしていたことも知っている」「今回の優勝で日本では人種差別的な声があがったことには、失望を感じる」とコメントしている。また彼女自身も、友人だったハーフの男の子の自殺をきっかけとして、この友人のために「日本の世の中を変えたいと思った」として、ミス・ユニバースに応募したのだと語っている。
この一連の報道を見ていて、私がとりわけ暗澹(あんたん)とした気分にさせられたのは、エリアナさん自身が、小中学校の頃に肌の色や容姿で差別され、典型的なイジメにあってきたことである。また、今回の日本代表決定にあたってのバッシングも、結局のところ、こうした陰湿なイジメの延長線上にある。そもそも「ハーフ」だからダメだというが、12年厚生労働省の調査では、日本で生まれた子どものうち約50人に1人が、父または母が外国人のハーフであるという。それも日本代表としては全部ダメだということなのだろうか。
日本人がこだわる「ウチ」と「ソト」との厳格な区別
最近、ネットを中心として「異質なものを排除しようとする空気」が強まっている。こうなるのは、明治以降日本は、科学技術や政治制度の近代化(西欧化)には成功したが、人的関係の近代化は失敗したためである。すなわち、西欧流の人的関係である「社会」が十分に形成されなかったために、伝統的な人的関係である「世間」が現在においても大きなチカラを持っている。「世間」は伝統的であるが故に、きわめて保守的である。日本を支配する「世間」のルールの一つに、「共通の時間意識」というのがある。これは、「世間」の構成員は「みんな同じ」時間を生きていると考えていることである。それは、個々バラバラの「個人の時間意識」で構成される西欧流の「社会」とはかなり異なっている。ここから、「みんな同じ」であれという同調圧力が生まれ、「異質なもの」はみんなと「同じ」とはみなされないために、「世間」から差別され排除されることになる。
とくに「世間」では「ウチ」と「ソト」との厳格な区別が行われる。「ウチ」にいる人間は「ミウチ」として援助を受け保護されるが、「ソト」の人間は「あかの他人」と呼ばれ、「世間」からはいかなる援助も受けることができず、排除されることになる。日本におけるあらゆるイジメや差別や排除の根源は、ここにあるといってよい。
「外人」というのはまさに「ソトの人」という意味だが、それは「世間」の「ソト」という意味であって、肌の色や容姿の違いで「ガイジン」と呼ばれ差別されるのは、「世間」の「ソト」に排除されることを意味している。つまり日本人にとって「日本人」というのは、「世間」の「ウチ」に帰属する人間のことで、「外人」とはけっして「世間」の「ウチ」には入り込めない、排除された存在なのだ。
「ジャパニーズ・オンリー」に無自覚な日本
そのために日本では、「外人」に対する差別や排除が後を絶たない。14年3月8日浦和レッズのサポーターが、サガン鳥栖との試合の際に、ゴール裏のコンコースに「JAPANESE ONLY」(外国人お断り)の横断幕を掲げた。これなど国際標準から考えれば、明らかな人種差別的発言としかいいようがない。こうした行為について日本サッカー協会は、同月13日にレッズに対して、無観客試合というリーグ史上初めてとなる厳しい処分を下した。日本では現在でも、外国人が食事をしようと飲食店に入ったり、銭湯やホテルを利用しようとしたり、不動産屋でアパートの賃貸契約を結ぼうとするような場合に、「外国人お断り」と言われることが珍しくない。よく知られているケースだが、02年11月には、小樽市の温泉施設が「外国人の入場お断り」の張り紙をしていた件について、札幌地裁で外国人の入浴拒否が「人種差別にあたる」として、施設側に損害賠償を命じた判決が出ている。しかし法的には明確に人種差別だとされるこうした行為が、今でも普通にまかり通っているのだ。
問題なのは、おそらくやっているほうも、これが明らかな人種差別だという意識はまるでなく、ごく軽い気持ちで「困った外人」を断るために、「外国人お断り」を掲げていることである。この言葉が持つ意味について、あまりに無自覚なのだ。つまり「世間」のなかに「ウチ」と「ソト」との厳格な区別があり、それを日本人はそれが当たり前だと思っているために、「ソトの人」である外国人を差別し排除することにさしたる抵抗がないのだ。
エリアナさんに対する学校でのイジメも、ミス・ユニバース日本代表決定のさいのバッシングも、「世間」に「ウチ」と「ソト」との厳格な区別があり、「世間」の「ソトの人」である外国人を「世間」から排除することに、心理的抵抗がほとんどないから生まれるのだ。
「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」と考えてみよう
こうした「異質なものを排除しようとする空気」は、近年ますます強まっている。ではいったいどうすればよいのか。この点でヒントになるのが、和歌山県立医科大学保健看護学部講師で慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科研究員の岡檀(おか まゆみ)さんが書いた『生き心地の良い町―この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(講談社、13年)である。日本は自殺大国といってよいが、この本で岡さんは、最も自殺率の低い徳島県旧海部町を社会調査した結果、この町の自殺率の低さには理由があると言う。面白いのは、この町の人間関係が他の町と違うところとして、自殺予防因子を五つほど指摘しているのだが、その第一番目に、「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」を挙げていることだ。
そこで岡さんは、他の町とは異なり、海部町では赤い羽根募金が集まらないという例を挙げる。すでに多くの人が募金したと言っても、「あん人らはあん人。いくらでも好きに募金すりゃええが。わしは嫌や」とはねつけ、「ほないわけのわからんもん(赤い羽根募金)には、百円でも出しとうないんや」と言って、募金しない人間が多いからだという。こうしたエピソードから、岡さんはこの町の人たちが、「他人と足並みをそろえることにまったく重きを置いていない」ことに思い至る。そしてそれは、この町の「多様性を尊重し、異質や異端なものに対する偏見が小さく、『いろんな人がいてもよい』と考えるコミュニティの特性」を示しているのだという。
ちなみに後の四つとして、(2)「人物本位主義をつらぬく」、(3)「どうせ自分なんて、と考えない」、(4)「『病』は市(いち)に出せ(困ったことはさらけ出せの意)」、(5)「ゆるやかにつながる」が挙げられ、それぞれ興味深い事例と考察が述べられているが、ここでは省略する。