「無責任の構図」に覆われる日本
いまや日本全体が、「無責任の構図」に覆われている。2015年7月17日、なぜか1300億円の建設費が2500億円に膨れ上がった新国立競技場建設計画は、「ゼロベースで見直す」との安倍晋三首相の突然の表明で、きれいさっぱり白紙に戻された。だがこの問題では、文部科学省の久保公人スポーツ・青少年局長が事実上更迭された以外には、安倍首相も、下村博文文部科学大臣も、遠藤利明五輪担当大臣(東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当)も、競技場建設の事業主体である日本スポーツ振興センター(JSC)も、大会組織委員会も、この稿を書いている時点では、誰一人その明確な責任を取っていない。その後、第三者委員会から「結果責任」を指摘された文科大臣も、首相に「辞意」を伝えたが慰留され、内閣改造時に交代するという、うやむやな決着で幕引きとなった。さらにJSCの河野一郎理事長が、任期満了を理由に9月30日に退任したが、これも曖昧な決着に終わった。
と思っていたら、今度は9月1日になって、2020年東京オリンピックのエンブレム(五輪エンブレム)が組織委員会によってあっさりと撤回された。盗作の疑惑があったためである。おまけに、作品選考のコンペが「出来レース」だったのではないか、との疑惑まで浮上している。
この問題でも、制作したデザイナーが「家族を守る」ことを理由に辞退しただけで、誰一人明確な責任をとっていない。エンブレムはすでに大々的に全世界に向けて発表されており、国際的信用の失墜を含めて莫大な損害が出たはずだが、なぜか五輪担当大臣も、大会組織委員会や審査委員会のメンバーも、どこか「他人事」のようなのである。中には被害者のような発言をした人さえいた。
このように、日本の組織体では、たとえ不祥事が起きても、誰にも責任がなく、誰も明確な責任を取ることがないということがよくある。こうした「無責任の構図」はいったいどこにその原因があるのか。私に言わせれば答えは簡単で、それは日本に「世間」があり、みんなそれに縛られているからである。こうなる理由を三つほど考えてみたい。
「なんとなく」「みんなで」「自然に」決定する
まず第一に、日本には西欧社会にはない「世間」が存在し、みなその「世間」のルールに縛られている、ということが挙げられる。その「世間」には「共通の時間意識」というルールがある。これは、「みんな同じ時間を生きている」と考えることであるが、その中身は西欧社会に存在する「個人」がいないということと、才能や能力の差を認めない「人間平等主義」にある。日本人は何人かでレストランに昼食を食べに行くような場合に、誰かが「A定食」と言った時に、自分だけ「フルコース」とは言いにくい。こうした時には、まず周りを見て、みんなで大体一番値段の安いものを選択するのが普通である。断固として意思決定するような「個人」が存在せず、「出る杭は打たれる」という諺(ことわざ)に象徴されるような横並び意識が働く。それが「人間平等主義」である。
組織体において意思決定する場合も同じで、「個人」が存在しないために、決定は「なんとなく」「みんなで」する。これを評論家の柄谷行人は、日本の組織体の中では決定や命令が、上位から一方的に作為されるのではなく、「自然に成った」ようになされると指摘している。意思決定の主体となるべき「個人」がいないために、組織の決定が「なんとなく」「みんなで」「自然に」なされるのだ。
それ故、組織の中にいる人間は、決定や命令が「なんとなく」「みんなで」「自然に」なされたと思っている。そのため、本来「個人」に帰属すべき責任の所在が、きわめて曖昧になる。これが「無責任の構図」を作り出しているのだ。
内部通報者がなかなか出ない
次に「世間」は、伝統的にウチとソトとを厳格に区別する。「世間」のウチでは「共通の時間意識」があるため、その構成員に対しては「みんな同じ」という同調圧力が生じるが、これに同調しない者は、「世間」のソトに排除される。すなわち「世間」のウチにいる人間に対しては、「身内」として干渉もするが、大事にし、困ったことがあれば、親身になって全力で援助する。ところがソトの人間に対しては、「あかの他人」もしくは文字通り「外人」として、無視し、排除し、困ったことがあっても一切の援助を拒否する。
日本人は「世間」のウチにいて初めて、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの言う「存在論的安心」(自分がここに存在し続けている理由に、自分で確信が持てること)を得ることができるために、「世間」のソトに排除されることを極端に恐れる。人は誰しも、「世間を離れては生きてゆけない」と思っているのだ。
例えば東芝の巨額の粉飾決算が外部に明らかになったのは、証券取引等監視委員会への内部通報が発端だったらしい。だがこの点で言えば、一般に会社など日本の組織体では、内部で何らかの不正があった場合に、それを外部に向けて告発する内部通報者が出にくく、コンプライアンス(法令遵守)の意識も希薄である。みんな会社というウチからソトに排除されることを恐れていて、不正の責任追及がきわめて難しくなるからである。
このように、責任の所在が外部に容易に明らかにならない「無責任の構図」は、日本の組織体も「世間」であって、ウチとソトを厳格に区別するからである。
一度決まると誰にも止められない
第三の理由として、「空気」の支配がある。評論家の山本七平は、太平洋戦争中の戦艦大和の特攻出撃の際に、それを無謀だとする根拠ないしデータがあったにもかかわらず、最終的にそれを決定したのは「空気」だと指摘する。山本は、このことは戦前も戦後も変わらず、「空気」のことを「大きな絶対権をもった妖怪」とまで言っている。日本人はいったん空気に支配されると、それがどんなに根拠がなく非合理・非理性的な決定であっても、それに従わざるを得なくなる。日本人が「空気」に支配されやすいのは、「共通の時間意識」があるために、意思決定をする「個人」が存在せず、「空気」に理性的に抵抗できないからである。新国立競技場にせよ、オリンピックエンブレムにせよ、東芝の粉飾決算にせよ、組織の決定過程の中で「ちょっとおかしいんじゃないか」と思った人間は内部にいたはずなのだが、醸成された空気には誰も逆らうことはできない。
つまり、一度決まると誰にも止められない。その結果、大和の無謀な特攻出撃のように、競技場建設費はいつの間にか2500億円に膨れ上がり、エンブレムもコンペの「出来レース」疑惑を抱えたまま突っ走った挙句、盗作が疑われるような事態となり、東芝の粉飾決算も、内部通報があるまでは徹底的に隠蔽される。
しかも、ここで意思決定をしているのは、まさに「空気」であって「個人」ではない。奇妙なことなのだが、おそらく大臣にせよ、組織委員にせよ、審査委員にせよ、東芝の役員にせよ、組織の決定をすべき立場にある人間でも、決定を下したのは空気であって、自分ではないと感じているのではないか。
そうなると、責任をとれと言われても、自分が「個人」として決定したという実感がないために、これに応えようがない。