この先「世間」はなくなるか
こう考えてくると、日本全体を覆う「無責任の構図」を崩すのは、容易ではないことがわかる。根底にあるのは単にモラルの問題ではなく、「世間」という日本に特有の社会構造そのものの問題だからだ。それ故、この状況を変えるためには、組織体の構成員が「個人」として行動できるようになるしかない。その点で印象深かったのは、安保法制に反対する活動をしている「自由と民主主義のための学生緊急行動:SEALDs(シールズ)」の中心メンバーの一人奥田愛基さんが、9月15日に開かれた参議院の中央公聴会で、「どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください」と呼びかけていたことである。いま日本人にとって必要なのは、彼の言うように、「個人」として判断し行動できるようになることではないか。
さて、三回にわたって日本の「世間」について論じてきたが、いかに日本人が「世間」にがんじがらめに縛られているか、分かっていただけただろうか。
ではこの先、「世間」は解体したり消滅することがあるだろうか。それはまず考えられない。なぜなら、西欧社会で「個人」を生み出したキリスト教支配の歴史が日本にはなく、おそらく今後もそれに匹敵するような、大きな歴史的経験に見舞われることはないからだ。とすれば、いま必要とされているのは、「世間」に縛られていることを徹底的に自覚した上で、「世間」のいい面、悪い面をきちんと腑分けし、いい面を残し悪い面を克服してゆくという、地道な作業であろう。