「迷惑かけてもいいよ、お互いさまじゃない?」という文化では全くありません。ですから、他人の家庭にもあまり口を出さない。子どもが死亡しても、ニュースで数日間消費されるだけで、取り立てて大きく騒ぎはしない。欧米では、理不尽な状況で子どもが死亡したことで大きく社会が動き、その子どもの名前を冠した法律が作られる、という実例はいくつも存在していますが、日本ではおよそ聞きません。
自分の周囲で子どもが亡くなるというのは、個々の人にとっては非常にレアな体験です。自分たちの地域で子どもの事故死が出た、虐待死が出たというのは、自分たちの恥だという感覚を持ってほしい。1人や2人死んでもかまわないと思っている人は誰もいないでしょうが、自分たちの地域で死ぬ蓋然性のなかった子が死亡する事態を「ゼロにする」という強い決意を持つことは、とても大事なことだと思います。
アメリカでもイギリスでも、そして日本のパイロットスタディーでも、子どもの死亡例のうち約3割が「予防可能な死」に該当すると報告されています。たとえば、人口約200万人程度の県では、子どもの死亡数は年間約65人で、その中で予防可能な死は20人程度発生していると推察されます。せめてその20人は県として詳細な検証がなされるべきでしょう。しかし、その20人にどの事例が該当するのかの適切なスクリーニングを行うためには、残りの45人にもしっかりとした検証が必要です。そのことを考えれば、市区町村レベルでも取り組むべき事業なのです。例えば人口約30万人の市町村であれば、年間死亡数は10人。十分にCDRは実現可能なはずです。子どもの死を「不幸な出来事」と蓋をして、同じことが日本各地で繰り返されるという状況を今こそ、変えるべき時だと思います。
朝日新聞(17年11月10日)の報道によれば、厚労省はCDRを制度として導入する方針を固め、2020年までに具体的な制度設計を終え、導入したい考えを示しています。17年5月には、衆院で児童福祉法改正案可決の際、「虐待死の防止に資するよう、あらゆる子どもの死亡事例について死因を究明するCDR制度の導入を検討すること」という付帯決議も盛り込まれました。
ただしその制度設計が関係者の間で、意見統一されているわけではありません。その意味ではまだ手探りの状況です。私は、地域の一部の専門職のみが関わる体制では不十分だと考えています。
子どもの死を経験した現場や市町村が、ナラティブな情報を含めて一次的に検証し、より客観的かつ施策に直結する地域の二次的検証を行ったうえで、情報を集約し個人情報を排したデータベースからの国家レベルでの三次検証を行い、それぞれのレベルで結果を共有し、提言された施策を実行し、年次報告で施策の実行状況を国民・各都道府県民がしっかりとトラッキングできなければいけません。「現場の学び」があり、「地域の学び」があって、そこから「国の学び」へとつながっていく。そういう三層構造でCDRを構築しなければなりません。
「十字架」を背負う身として
私は、子どもに関わる仕事をしたいと、小児科医になりました。虐待を専門にする医者として、これまでさまざまな惨状に向き合ってきました。
医者の立場からすれば、虐待は子どもの心身に多大なダメージを与える疾病ととらえています。この疾病は有病率が高く、慢性化しやすく、重症化した場合の致死率も高く、加えて親から子への垂直感染(虐待の世代間連鎖)を起こす比率も高い、という極めて重大な疾病です。
疾病である以上、公衆衛生学的な予防医学的アプローチが可能です。一般的な一次予防(発生そのものの予防)から二次予防(早期発見・早期治療)、そして三次予防(疾病により発生した後遺症の治療・リハビリテーション)のみならず、ゼロ次予防と四次予防までをも射程に入れないといけません。
虐待は個人の病理ではなく家族病理ですから、特定妊婦(出産後の子どもの養育について出産前からの支援が必要だと認められる妊婦のこと)への支援など、生まれる前の子どもを対象とした「ゼロ次予防」から、CDRを含めた死亡した子どもを対象とした「四次予防」までのサイクルを、医療の中で位置付けることが、虐待を専門とする僕たちの使命と思っています。
ただ、繰り返しになりますが、CDRは虐待の見逃し防止だけを目的としたものではありません。私は一般小児科医としても様々な子どもの死に関わってきました。目の前の子どもに最善を尽くしたものの、死亡してしまうといった経験をしてきたのです。
医療に携わる人間なら誰しも患者が死亡するという経験をしています。治癒する可能性が少しでも高い治療法を選んだけれども結果それが奏功せず死亡した子ども。あの時、別の選択をしていれば、この子は死ななかったかもしれない。今できる最善を尽くしながらも、高次医療機関にたどり着く前に死亡した子ども。初めから高次医療機関にかかっていれば、もしかしたらこの子は死ななかったかもしれない。このような不全感(「十字架」)は医者であれば誰しも背負っています。これらは決して医療過誤と呼ぶべきものではありませんが、これまでオープンに話し合うことは憚られてきました。しかし、このような体験を共有することが、医療者の専門性のさらなる向上と、将来的な子どもの死亡を防ぐための英知となるだけではなく、専門職同士のケアにもなると思います。CDRが導入されることで、そういう文化も形成されるようになるのではないか、と思っています。
現状はCDRの実現に際し、法的な整備や制度上の整備は何もなく、「医療機関」が「研究として「後方視的(研究開始の時点で既に死亡した事例の、既に収集した情報のみを対象とすること)」に行わなければならない状況にあります。しかし、本来のCDRは多機関が多面的に行うものです。諸外国では虐待対応において多機関連携体制(関係機関同士が別々に動き必要時に情報共有を行うのではなく、関係機関が「チーム」として一体となって動く体制)が整備され、それを基盤としてCDRが構築されました。
日本では、諸外国と逆の流れではあるかもしれませんが、CDRが開始し、多機関が顔を突き合わせて徹底的に議論する経験を積み上げることで、今生きている子どもを守るための、真の多機関連携チームの構築が地域で促進されるのではないでしょうか。
様々な立場の大人が連携して、子どもを徹底して守ることのできる地域につくり変えるムーブメントを! それこそが私の思いです。
子どもの死を防ぐために、トップダウンではなく、草の根からのCDR構築を目指す時が今、来ているのではないでしょうか。