これまで日本は、1952年に主要農作物種子法を制定し、計画的に米や麦の種子を生産してきた。農家は、それぞれの地域や気候に合った種子を安価に手に入れられることができたのである。ところが、この法律が2018年に廃止された。その理由は何だったのか? 廃止によって日本の農業はどんな影響を受けるのか? 世界の食の問題に詳しい印鑰智哉(いんやく ともや)さんに聞いた。
「種子法が廃止される」とはどういうことか
2018年4月、「主要農作物種子法(以下、種子法)」が廃止されました。これは、日本の主要作物である米、麦、大豆の種子の開発・管理・普及を、国や都道府県に義務付けていた法律です。1952年に成立し、半世紀以上、米、麦、大豆の安定供給を支えてきました。
そもそも「種を採る」というのは、農家にとって非常に負担の大きい作業です。種を採るためには、作物が実っても出荷せずに種ができるまで長い期間待たねばならず、その間は収入を得られません。特に、味や発芽率などに優れた優良品種の質を守って種を採るのは、非常に手間が掛かる難しい作業なのです。
そこで、戦後の食糧難の中で、米と麦と大豆の種子だけは公的な事業で確保していこうという流れができました。それを制度として定めたのが種子法だったわけです。
下の図は種子法の下、都道府県の農業試験場で行われてきた稲の種採りの流れです。「原原種」「原種」と呼ばれる親種を育て、最終的に種もみを供給するまでにはこれだけの段階があり、最低でも4年掛かります。「種もみが足りない」となっても急に増産することはできないので、その意味でも公的事業で計画的に進めていくことが必要だと考えられたのです。ちなみに、米、麦、大豆以外の作物については種子法のような公的保護の仕組みはなく、その結果として今、日本で流通している野菜の9割くらいは、海外産の種が用いられるようになっています。
ところが今回、その種子法が、「民間企業の種子事業参入を促す」との理由で廃止されました。これによって、米、麦、大豆についても、国や都道府県に種子の開発や生産、供給を義務付ける法的裏付けはなくなりました。国の予算が割かれなくなったことで、種子生産のための農業試験場を規模縮小・廃止する都道府県が出てくるかもしれません。
更に、都道府県が有していた知見や人材が民間企業に流出していく可能性も大きい。種子法廃止と同じ国会で成立した「農業競争力強化支援法」でも、「都道府県が有する種苗の生産に関する知見の民間事業者への提供を促進する」と定められています。
しかし、現状では民間の種子企業には、公的種子事業が供給していた分を代わりに担えるような能力はありません。しかも、種子事業をやってみたけれど思うように利益が上がらないとなれば、営利企業ですからあっさりと撤退してしまうでしょう。そうなれば、種の供給量が足りなくなる可能性があります。
また、種子法の下では、それぞれの土地の気候や特性に合った多様な品種が開発され、日本全国で300品種以上の米が作られてきました。しかし、民間企業がこうした多品種を守っていくことができるとは思えません。一つの品種を開発・維持するのには莫大な費用が必要ですから、民間企業はできるだけ少ない品種で広域をカバーしようとします。そうなると、種の多様性はどんどん失われていきます。多様性の確保は、病虫害や干ばつ、水害などのリスクに備える意味でも重要ですから、これは非常に危険な流れです。
種が「公共で守るもの」から「企業が開発して儲けるもの」に
種子法廃止にあたって、政府は「種子法があると民間企業の投資意欲が削がれる」と主張しました。しかし、この説明にはつじつまの合わないところがあります。
民間企業の種子事業への参入自体は、1986年の種子法改定で可能になっており、ここ数年もいくつもの企業が参入・事業拡大を表明していました。例えば、トヨタグループの総合商社である豊田通商は、2015年に「しきゆたか」という米の品種で種子市場に参入しています。また、化学メーカーの住友化学も、14年に米の品種3種類を取得して米事業に参入、しかも15年からの5年間で米の生産量を67倍相当の6万トンに増やすという計画を発表していました。つまり、種子法がある状況でも、既に民間企業は種子事業への投資に意欲満々だったわけです。
民間企業が開発する品種というのは、主にコンビニ弁当用の米などに使われるような大量生産用の品種ですから、中食・外食産業の拡大が、企業の種子事業参入を後押ししたということになります。また、種子事業そのものはそれほど利益の出るものではありませんが、「開発した品種の種子を自分たちの会社の農薬や化学肥料とセットで売る」、それも国内の小さな市場だけではなくて「海外に売っていく」ことで利益が見込めるという計画だと言えるでしょう。
だから、必ずしも種子法が民間企業参入の障壁になっていたわけではないと私は思います。種子法廃止が決まった時には、大企業の意向が陰で働いたのではないかという話も一部で囁かれましたが、そうした考えにも懐疑的です。企業の意向が反映されたというよりも、日本政府がどうしても種子法廃止を進めたかった。そしてそれは、種を「公共で守るもの」から「企業が開発して儲けるもの」にして、民間企業が作った種を海外の農家に売り付けて利益を得るという、米国系グローバル企業が主導する戦略を推進したいからではないかと思っています。
事実、世界銀行を始めアメリカや日本が比較的大きな発言権を持っているような国際機関では、各国が国内の農業を守るために設けているさまざまな制約や規制を、どんどん廃止していくべきだという報告書が出されています。そして、そうした政策を世界で一番忠実に実行しているのが、今の日本政府なのです。
TPP(環太平洋経済連携協定)への参加や種子法廃止などに反対している人の中には、日本はアメリカ政府やグローバル企業の世界戦略に飲み込まれる「被害者」だというイメージを持っている人も多いと思いますが、必ずしもそうとは言えません。もちろん、消費者や小規模農家は「被害者」かもしれませんが、日本政府自体は、そうした戦略を自国や世界の農家に対して推進しようとしている「加害者」だとも言えると思います。
そして、その一方でアメリカ始め他の国々でも、小規模農家はグローバル企業によって収奪され、潰されるという、日本で起こっているのと同じ事態が進行中です。つまりは、農業を小規模な家族農家が担うものから、企業が決定権を持って利益を上げるためのものに変えていく。そうした動きが、今世界中で進められているわけです。
1998年に批准
UPOV条約は、植物新品種保護国際同盟条約。1961年に採択され、68年に発効。3度の改正が行われ、日本は91年に改正されたいわゆる「ユポフ91年条約」を批准している。
アグロエコロジー
生態系を守るエコロジーの原則を農業に適用する科学であり、その農業の実践であると同時に、食や農業の在り方を変える社会運動でもあるとされる。工業化された農業に対するオルタナティブとして注目を集める。