江戸の昔から、水運で栄えてきた東京ですが、現在の街並みにその面影はほとんどありません。陸上交通が飽和状態にあるなか、東京の水面をもっと有効的に活用するにはどのような取り組みが必要なのでしょうか。水辺利用を長年研究してきた陣内秀信・法政大学特任教授と、水際の人文史を研究する松田法子・京都府立大学准教授のお二人が、江戸、明治から現代にいたるまでの東京の水上交通について語り合いました。
水運を重視した江戸の都市づくり
松田 東京の前身である江戸は、水運と切っても切れない関係にありました。江戸の成り立ちとあわせておさらいしておきたいと思います。まず、中世には品川に港が開け、都市的な場を形成していたと想定されています。浅草寺がある千束郷の石浜(現・荒川区石浜付近)や今戸(現・台東区今戸付近)にも古くから港があったというのが定説です。今の大手町や日比谷一帯にあたる日比谷入江にも、舟入(ふないり。船が出入りするための入り江や掘割)の機能があったとされます。石浜や今戸は、隅田川や古利根川、奥州街道や房総方面への街道に連結する港でした。江戸のルーツともいえる江戸郷を支配していた武蔵国の有力武士、江戸氏がこれらを統括していたと考えられています。「江戸」という地名が初めてみてとれる史料としても知られる江戸氏の関係文書は、1261(弘長元)年のもの。江戸の地は中世にはすでに水陸交通の要衝だったといえるわけですね。
陣内 そのとおりです。そして太田道灌が江戸城を築いた15世紀を経て、徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開くと、天下普請の一環として大規模な城下町建設が行われていきますが、この時に排水路を兼ねて掘削されたのが「掘割運河」です。都市の内部に入り込むこの運河網によって、都市内各所に小さな港が連なるような、都市の“内港”とでもいうべき独特のシステムがつくりあげられました。運河沿いには数多くの河岸(かし)がつくられ、水運と陸運を結ぶ役割を果たしていました。
松田 都市の内部に港の機能が入り込んでいたわけですね。
陣内 江戸湾は遠浅で砂が溜まりやすく、都市に近いところにはなかなか大きな港をつくれなかった。そこで、佃島の沖に停泊した大型帆船から小舟に荷を移し、そのまま都市の最深部まで直接運搬して、倉庫や河岸に運び入れることができるシステムをつくりあげたのです。そのため江戸には世界でも珍しい独特の景観がありました。物資を納めるための土蔵がずらりと並ぶ、河岸の景観です。実は、これらの河岸は「公儀地」といって、幕府が管理する土地でした。土蔵を使っているのが商人でも、彼らは個人的にこの土地を所有していたわけではなくて、権利を貸与されていたのです。それだけ幕府が港湾を重要視し、個人が勝手に売り買いできないように制限していたということでしょう。
水運は江戸と東京の歴史をつないでいる
松田 明治以降の水運についても教えてください。
陣内 江戸時代には公的な土地だった河岸ですが、明治になるとそのルールが崩れて、当時の東京府がどんどん民間に貸与・売却していきました。その結果、土地の利用形態と景観が統一されていた江戸の水辺が、現在のようにオフィスや住宅も立ち並ぶような、雑多で、かつ水と陸の関係性が薄い風景に変わっていったのです。
とはいえ、関東大震災(1923=大正12年)の直前に行われた船の通航量調査によると、そのころはまだ、小名木川(おなぎがわ)や北十間川(きたじっけんがわ)、神田川にかなりの通船があったようです。また、関東大震災の瓦礫で運河が埋め立てられたという説がありますが、実は関東大震災後には、水運を強化したという事実もあります。陸上交通がずたずたになったので、インフラとしての運河の役割が見直されたのです。震災で水上交通が見直されるという例は、1995年の阪神・淡路大震災の時にもありましたし、また東京でも将来起こりうる災害を見越して防災船着場が整備されてきました。ただし、関東大震災の後、東京の運河は全体としては、段階を追って減ってきたのです。東京大空襲などによるがれきを処理するための埋め立ても多かった。それでも1960年代までは、水上生活者も存在していて、月島に公立の水上小学校などというものもありました(66年閉校)。しかし、伊勢湾台風(59年)の高潮被害の教訓から、60年代に入り、海岸や運河に沿って防潮堤が建設され始めたことで、船を接岸し、荷揚げできる場所が激減しました。そして64年の東京オリンピックによって、東京の水運はほぼ途絶えました。
松田 水から河岸へ、河岸から都市の内陸へ、とつながっていたヒトやモノの実質的な流れが途絶えたことで、生き生きした水辺の風景が喪われてきたわけですね。
水と陸の結節点の面白さ
陣内 ところで、東京の名所には、かつて水運と深い関係があった場所があります。たとえば両国駅といえば相撲の国技館などが思い浮かびますが、一時期は鉄道のターミナル(総武鉄道・両国橋停車場)でした。
両国は隅田川沿いの地。陸運は元々水運と連結することが重要なので、陸運のターミナルは水運上でも重要な場所に近接してつくられたことが多い。