露骨な性差別、セクハラ事件が頻繁に起こる昨今。それでも、そういった事実を頑迷に認めたくないという人たちがいる。財務省セクハラ騒動の際にも、中高年幹部を集めてセクハラについて研修をした様子が報道されたが、あれは本当に効果があったのだろうか? 大人になってから、それは人権侵害だと教えたところで、差別的な態度は直らないのではないか? と疑問に思う。
ジェンダー差別について発言を続ける太田啓子弁護士に、これから社会に出ていく子どもたちにどのようにこの現状を教えていったらいいのか、性差別の社会と親子でどう向き合うか、お話をうかがった。
今回のテーマは、〈わが子を性差別や性暴力の加害者にしないために〉ですが、これは私が、二人の息子を育てる中で日々、考えていることでもあります。息子たちは今、小学校4年生と1年生。彼らが成長したときに、平気で性差別的なことを口にするような男性になってしまったらどうしよう──。日常の中で、しばしばそう感じることがあるのです。
「偏差値エリート」大学生たちの性暴力事件
そんな不安を抱いてしまうのは、息子たちが日々接している今の日本社会に大きな問題を感じるからです。学校での性教育は不十分で、性についてのきちんとした知識を身に付ける機会がほとんどない。さらには、そもそも社会全体に人権についての理解が乏しく、非常に性差別的な性暴力表現があふれている。これほど性差別に寛容な、それどころか無自覚に性差別を助長するような社会の中で育っていったら、性的なこと、ジェンダー的なことに対するとらえ方がゆがんでしまっても全くおかしくない、とさえ思います。
2016年には、いわゆる「エリート」大学生による性暴力事件が相次ぎました。東大生が集団で女子大生に強制わいせつ行為をして逮捕、起訴され有罪判決。さらに、千葉大の医学部生と研修医が酩酊した女性に準強制わいせつ行為をしたとして逮捕、起訴され、これも有罪判決。さらに、不起訴処分となりましたが慶応大学でも集団強姦事件があったと報道されました。こうした一連の事件を見ていると、どれだけ「勉強」ができて偏差値が高い大学に通っていても、そのことと人権意識の有無、とりわけ性差別への感覚の鋭さには関係がないのだとつくづく感じさせられます。
女性を一方的にモノのように扱うこのような性暴力は、女性を見下す発想がなければ行い得ないものです。東大生の事件では、法廷で被告人らが犯行に至った自らの心情について「大学に入って他大学の女性と会うことが多くなると、彼女らは『自分より頭が悪い』と考えるようになり、相手の気持ちが考えられなくなった」などと述べたと報じられました。性暴力は相手を自分より「下」であると見下げる意識、要するに差別意識に根差すものだということを、明白に示す供述だと感じます。この被告人らについては東大生だという自負も相手を「下」に見る意識を強めたのかもしれませんが、それだけではなく、あらゆる性暴力の根底には女性を「下」に見る、「下」に置きたいという性差別意識があるのではないでしょうか。
全体から見れば一部とはいえ、若い男性の間にここまで強い性差別的価値観が広がっていることは衝撃です。日本国内では「高度」なほうの教育を受けてきたはずの彼らに、そうした価値観が育っていたのは一体なぜなのだろうと考えずにいられません。やはり、学校での性教育が全く不十分なこと、性差別はいけないということを社会全体で教育していこうという発想が乏しすぎることが背景にあるのではないかと思います。
性差別と性暴力表現にあふれた日本社会
たとえば、テレビのバラエティ番組などを見ていても、女性を貶めたり、同性愛者を嘲笑したりするような表現や、性暴力を娯楽のネタにしているような表現に気になることがあります。
2017年の話になりますが、フジテレビの番組で「保毛尾田保毛男(ほもおだ ほもお)」という、同性愛者を揶揄したキャラクターにタレントが扮してのコントが放映されました。差別表現だと批判を集め、フジテレビは後に謝罪しましたが、いまだにこんなことが許されると考えていたのかと驚きました。
また、18年の夏に放映されていた日本テレビの「24時間テレビ」でも、びっくりするような企画がありました。女性のモデルや芸人が、上はTシャツ、下は水着のビキニパンツという格好で「お尻相撲」をして、その様子を見ながら、スタジオの男性タレントらが「あのお尻の形がいい」などと品評するのです。ちょっと信じがたいような時代錯誤ぶりで、暗澹たる気持ちになりました。
こういうことを指摘すると「お笑いなんだから」「ジョークがわからない」「表現の自由だろう」と批判されがちです。でも、差別の対象に直接的に「死ね」「消えろ」などと言うことはしなくても、特定の属性をゆがめてデフォルメしてからかうことで貶めたり、女性を一方的に性的対象として配置するというのは、ある意味差別の「王道」ともいえるやり方なのではないでしょうか。十分な性教育を受けず、性差別はなくさなくてはいけないという基本的価値観を身に付けることもないまま成長していけば、このような表現の問題を指摘されても根本的な意味がわからないのではないかと感じることがしばしばあります。
女性の写真や動画、イラストを使用した企業や官公庁のCMやポスターでも、近年何度も「炎上」騒動がありました。女性タレントによる性的な表現が批判を集めた宮城県の観光PR動画や、性的比喩を多用したサントリーのアルコール飲料CM、女性の容貌を揶揄するようなルミネのCMなどが記憶に新しいところです。
このような「性差別を巡って問題になる表現」は大きく二つに分けられます。一つは女性の身体を性的に強調するなど、女性を一方的に性的対象として描くもの。もう一つは、男女の性別役割を固定的に描くというジェンダー差別です。
前者に関しては、女性の胸やお尻など性的なパーツを極端に強調したようなグラビアやイラストが、コンビニや電車、駅の売店など、誰もが出入りする公共空間にあふれていて、子どもの目にも容易に触れるような状況であることをずっと懸念しています。もちろん、私的空間で私的にそのような表現物を楽しむことは問題ありませんが、それと公共空間にそのような表現物を置くこととは全く別です。子どもが性差別に親和的な価値観を持たないよう、間違った性的知識を持つことのないよう、公共空間のあり方について大人が責任を持って真剣に考えるのが成熟した社会だと思うのですが、今の日本はそれにはほど遠い状況だと感じます。
さらには、地方自治体など公的な機関までもが、ポスターや宣伝物で性差別に無頓着な表現をしばしば利用しているのも、非常に問題だと思っています。おそらくは広告代理店などに丸投げか、「こういうのが若い人に人気だから」という程度の軽い発想でつくられたものなのでしょう。でも、私的な主体ではなく公的機関の表現物を公共空間に出す場合には、いっそう明確に「性差別的な目線がない」表現であることが求められると思います。
東京医科大学で、入試の際の不正
2018年8月、東京医科大学が医学部医学科の一般入試において、女子受験者の得点を一律に減点するなどして、意図的に女子の合格者数を抑えていたことが発覚した。