これについては、たとえば埼玉県の「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」などが参考になります。
「女性が嫌がっている」様子に欲情することを肯定的に描写することの問題
さらに、私が気になっているのは、女性を性的対象として描く表現物に、女性が性的接触を明らかに嫌がっているように描かれているものが少なくないことです。AVにも、「レイプもの」「痴漢もの」など、明白な性暴力を娯楽対象として描くものがありますね。その中には、レイプだったけれど途中から女性が性的に快感を得て興奮し始めるというような描写もあります。
そういうものをおよそ作ってはいけない、見てはいけない、というわけではありません。性的嗜好も内心に留まる限り自由です。制作、流通、観賞のどの過程でも他者の人権を侵害せず、TPOをわきまえている限りは、批判対象にはならないと思います。
でも、そうした表現物を、性的知識が不十分で、性暴力とはどういうものかもわかっていない子どもの目に触れさせないという社会全体での配慮は必要です。その重要性が社会全体できちんと共有されているとは言いがたいのが現状だと感じています。さすがにAVは一般的にはゾーニングされている(子どもの目に触れないよう、置く場所等に一定の配慮がされている)とは思いますが、肌を多く露出した女性が恥ずかしがったり嫌がったりしているようなイラストや、顔は幼いのに胸やお尻が極端に大きく描かれた女性の身体のイラストは、子ども含む全年齢対象の漫画などでもよくあります。
「相手が性的接触を嫌がっていること」を性的に興奮する対象として描く表現がなぜ気になるのか。それは、性暴力を軽視する価値観形成に影響しないだろうかと思うからです。
性教育が徹底され、性暴力がどれだけ被害者に深刻な影響を及ぼすかが常識となっている社会であれば、このような表現物の氾濫も、そこまで気にならないのかもしれません。でも、実際には今の日本社会では、性教育はあまりに貧弱です。まともな性教育を受けないままで、性暴力の描写を娯楽として楽しむような表現物に何度も触れていたら、性暴力の何が悪いのかも十分わからず、性差別を空気のように吸いこんで内面化していってしまうこともあるのではないでしょうか。
どんなものに性的に興奮するかというのは、個人差もありますが、ある程度社会で、文化的につくられている面もあるでしょう。そう考えると、全年齢対象で子どもも見るようなイラストや漫画で、あるいはゾーニングされていない空間で、「相手が嫌がっている様子は『エロい』『性的な興奮をかきたてるものだ』」というメッセージを無頓着に送り続けることには、やはり問題があると思うのです。
これは、「性差別的な表現物や、性暴力を娯楽として描く表現物を見た人は即、性犯罪を犯すに違いない」といった短絡的なことを言っているわけではありません。
ただ、私が実際に被害者代理人を担当したある集団強姦事件で見たことですが、加害者らは「強姦目的で拉致した女性の体を触っても全く反応がなく、性的興奮を示さないので拍子抜けしてしらけた」と供述していました。彼らは、強姦でも相手は性的に興奮すると思いこんでいたのですね。彼らの思いこみが何に影響されて形成されたものなのかの証明は難しいですが、どこかでそのような表現物に接することで、そうした刷り込みを受けたということもあり得るのではないでしょうか。
そうはいっても、もちろん、表現物に影響されて実際に性暴力加害に及ぶ人はごく少数でしょう。でも、性暴力が蔓延する現状を踏まえれば、ただ性暴力を実際に行わなければいいというものではありません。
たとえば、性差別の現状をきちんと理解し、性暴力被害者の声を真摯に聞こうという態度が取れる人──性暴力被害の告発の重要性をちゃんと理解していて、間違っても「男性と夜に二人で飲みにいったらホテルにいくのが当たり前だろう」というような「二次加害」をしない。痴漢被害がどれだけひどいかという話題が出たときに「でも痴漢冤罪もひどいよね」と何の根拠もなく口をはさんだりしない。女性差別の深刻さが論じられているときに、ただその議論を妨げたいためだけに「男性差別もある」と決まり文句のように割り込んできたりしない。現実社会でもインターネット上でも、誰かに性的嫌がらせをしている人を見かけたら介入して助け、加害者に怒りを感じる。そういう人が社会の多数を占める状況なのであれば、私自身もこんなに性差別的表現について懸念しないのではないかと思います。けれど、残念ながら今の日本社会がそうではない以上、性差別的価値観を維持・形成し、性暴力を軽視させることにつながる可能性のある表現物は、問題があるとして批判せざるを得ません。
性加害の場面を「男の子のやんちゃでほほえましい悪戯」扱いしないでほしい
要するに、子どもにまともな性教育が行われていない社会では、子どもが接する性的情報が一種の「教科書」になってしまうところがあると思うのです。
たとえば子どもたちに人気のアニメ『ドラえもん』でも、気になることは時々あります。のび太くんが、しずかちゃんの入浴シーンやスカートの中を偶然見たり、見ることができそうになったりして「ラッキー」と言う場面は、今でもしばしば登場するようです。こういうシーンが、ストーリー上の必然性もなく、単なる「ちょっと笑えるエピソード」という位置づけなのがすごく問題だと思っています。
現実には、たとえ相手の「うっかり」であっても、下着や入浴中の姿を見られてしまったというのは女性にとって相当不快な記憶で、深い心の傷になることもある。そんな深刻なシチュエーションを「笑えるエピソード」という位置づけで描くというのは、性被害を軽視させる危険性をはらむと思います。
こういう話をすると、まるで私が「『ドラえもん』を見たために、女の子のお風呂を覗いてもいいんだと思って実際に覗く男の子がたくさん生まれる」と主張しているかのように批判する人がいるのですが、そんなことを言っているわけではありません。ただ、こういう表現が性被害を軽視していることは事実で、そのことが受け手の価値観にある程度影響を及ぼす可能性はあるだろうということです。
こうした「ラッキー」な場面の後、しずかちゃんはのび太くんをひっぱたいて「大嫌い!」「のび太さんのエッチ!」などと言うけれど、それでおしまい。またすぐ一緒に遊んでいる場面が出てきたりします。「漫画だから」と言ってしまえばそれまでですが、やっぱり「スカートの中を覗かれる/覗かれかける」という、確実に相手にとっては性被害にあたる行為を矮小化して、「わざとじゃなかったからいいんだ」「男の子のやんちゃな悪戯でほほえましい」と免責してしまっている部分がある。少なくとも、そういう描き方になっているということを、作り手は認識する必要があると思います。これは、表現者の社会的責任意識を問うということです。
先に触れた、男女の性別役割を固定的に描く「ジェンダー差別」についても、気になることはたくさんあります。たとえば、ニュースやバラエティ番組で、男性が「ものをよく知っている」解説役、それを感心して聞いて相槌を打つのは若い女性……という組み合わせがいまだに目立つこと。
東京医科大学で、入試の際の不正
2018年8月、東京医科大学が医学部医学科の一般入試において、女子受験者の得点を一律に減点するなどして、意図的に女子の合格者数を抑えていたことが発覚した。