地下鉄サリン事件の実行犯の送迎役を務めたほか、出家信者の殺害に関与し無期懲役の刑が確定し、山形刑務所に服役中の杉本繁郎は「麻原の狂気性に同調した我々弟子がいたからこそ事件は引き起こされた」と振り返った。ある元出家信者の女性は、私の取材に「私たちが『尊師』を必要としていたから、松本智津夫が『尊師』になれた」と語った。教祖と彼を支えた弟子たちの関係を、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯だった端本悟は「共同幻想」という言葉で表現した。教祖と弟子たちの間に膨れ上がった共同の幻想は制御不能になってしまった。
杉本は1996年12月6日、麻原の公判に証人出廷した際に、「もういいかげん、救済ごっこ、真理ごっこ、くだらない宗教ごっこをやめて目を覚まし、同じ過ちを繰り返さないでほしい」と、教団に残っている信者に呼び掛けた。救済ごっこ、宗教ごっこが凶悪な組織犯罪に反転したのは、出家した理系の信者にサリンやVXなどを自由に開発させることができる資金力を有していたからだ。サリンの量産プラントは完成間近まで建設が進んでいた。70トンものサリンが生成され、ヘリコプターでまかれていたら、犠牲者の数は万単位、十万単位では済まなかったかもしれない。それだけの大量破壊兵器を彼らはほぼ手中にしていたことを忘れてはならない。
世紀の裁判で、教祖は何を語ったのか
「救済」という宗教的動機の下で、教団は多くの罪のない人たちを手に掛けた。一連の事件の首謀者として、当初17件の罪で起訴された教祖・麻原彰晃を裁く法廷は「世紀の裁判」と呼ばれた。しかし、麻原は罪と向き合う姿勢をまったく見せないまま、事件から約9年後の2004年2月に東京地裁で死刑判決が下された。
控訴審では二人の私選弁護人がついたが、審理に入ることなく裁判は打ち切られた。二審を進めるために必要な手続きである控訴趣意書を、弁護団が期限までに出さなかったという手続き上の理由だった。世界の注目を集めた裁判は、一審だけで終結する極めて異例の幕切れとなった。子どもの喧嘩の果てのような高裁の審理の進め方が後世の評価に堪えうるのか、私は疑問を持ち続けている。
麻原は自分の裁判で何もしゃべらなかったわけではない。初公判から1年後、裁判官の交代に伴う意見陳述の機会があった。麻原の口から出たのは英語交じりの弟子への責任転嫁の言葉だった。自らの指示によって組織として無差別テロ事件を起こしたことを認めた上で、殺人を正当化する宗教思想を主張するという選択肢もあった。私はひそかにその事態を危惧(きぐ)していた。しかし、麻原はその道を選ばず弟子への責任転嫁を選んだ。単に命が惜しかったのではないか、と私は思った。この後、自身の公判で意味のある言葉は一度も発しなかった。沈黙の世界に逃げ込んだのは、麻原自身の意志である。
オウム化する世界
地下鉄サリン事件があった1995年3月以降、世界で起きた最大の変化はインターネットの発達だ。95年には「ウィンドウズ95」が発売された。教団は時代の先端を行っていた。教団の関連会社「マハーポーシャ」でも格安のパソコンを販売。教団は黎明期のインターネットをフルに活用していた。「科学技術省」では、科学技術情報を提供するデータサービスにアクセスし論文や記事などを検索、武装化を進めるための情報源にしていた。
インターネットは個人が世界と瞬時につながる革命的なツールだった。近年はスマートフォンが主流になり、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを通じて、個人が自分の意見を直接、世界に発信できるようになった。情報を独占していたマスメディアの地盤沈下は著しい。即座に欲しい情報を検索することができる利便性を、もはや私たちは手放すことはできない。
インターネットが生み出す明るい未来を信じた人は多いはずだ。しかし、今、私たちが直面しているのは、ネットの負の側面だ。フェイクニュースや陰謀論がSNSを通じて瞬時に拡散する。荒唐無稽としか思えないフェイクニュースが真実であるかのように飛び交う。見たいものしか見ない人が増え、違う意見を持つ相手との議論や対話は成り立たなくなってきた。世界をつなぐツールとして期待されていたはずのインターネットが、むしろフェイクニュースや陰謀論を拡散し、社会を分断する装置として機能するようになると誰が想像できただろう。
麻原が、そしてオウムが実現しようとしたのは、自分たちだけが正しく、他はすべて敵であるという、極端な「善悪二元論」の世界だった。教団内では「米軍や自衛隊から毒ガスで攻撃をされている」などの陰謀論が叫ばれ、暴走を加速させることにもなった。教団は教祖の妄想から作り出された荒唐無稽な価値観を、教団外の人々に力ずくで押し付けようと暴走し、破滅した。インターネットの「副作用」によって激変しつつある社会のありようは、麻原が武力によって築こうとした世界観に近づいていないだろうか。
物質的な豊かさが優先される社会に疑問を感じていた若者の心の空虚さを、神秘体験を利用して埋めようとした「怪物」が麻原だった。将来的にはAIが多くの職業を奪ってゆくことが予想される今、私たちを覆う閉塞感は、増すことはあっても減ることはないだろう。そして、こうした閉塞感や不満をすくい取って利用するポピュリズム(大衆主義)的な指導者が登場したら──。宗教という形ではなくても、オウムと同じように、疑うことなく指導者に従い、人を傷つけることさえ何とも思わない、そういう集団が生まれてくる可能性は十分にある。それを防ぐためにも、オウムの事件を忘れてはならない。そこから私たちは学ばなくてはならないのだ。
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