この入試改革は、高校の教育改革、大学の教育改革と連動した三位一体の改革と言われてきた。入試を変えることで教育を変えるという、いわば本末転倒の改革でもあるのだが、そこでもうひとつの焦点になったのが「学習指導要領」の改訂であり、なかでも「国語」のカリキュラム改訂である。
さまざまな問題点のうち、最大のものが読解中心の教育からの転換である。中央教育審議会の答申(2016年12月)にこんな一節があった。
高等学校では、教材への依存度が高く、主体的な言語活動が軽視され、依然として講義調の伝達型授業に偏っている傾向があり、授業改善に取り組む必要がある。(中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策について」p.124、2016年12月21日)
これに応じるように、高校の「国語」では、「主体的な言語活動」として「話すこと・聞くこと」や「書くこと」の領域に関わる授業を増やし、「読むこと」の時間数を減らすという方針が採られたのである。
これまで「国語総合」という高校1年を対象にした必修科目では、現代文・古典を合わせて週4時間程度の履修が行われていたのが、新しい「学習指導要領」では「現代の国語」と「言語文化」という2科目に分かれることになった。「現代の国語」は「話すこと・聞くこと」や「書くこと」を中心に置き、スピーチや作文、討論やエントリーシート、予算申請の書き方といった実用的な学習指導に重点を移すという。「言語文化」は反対に「読むこと」中心となったのだが、そこで扱うのは古典が大半で、しかも文法の教育は軽くして現代との接点に軸を置いた伝統文化の教養授業となった。つまり、従来あった批評や評論、エッセイを読む授業は傍流となり、古典や小説・詩歌は限られた範囲でのみ学ぶことになったのである。
高校2年以上の「現代文A・B」「古典A・B」「国語表現」という選択科目は、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」となった。この選択科目のなかにわざわざ「文学国語」として独立させたのだから文学を軽視しているわけではない、というのが「学習指導要領」改訂派の見解である。しかし、「文学」とは小説や詩歌、随筆を意味するだけではなく、広義においては「論理」をも含めたあらゆる言語表現の可能性を意味する言葉である。それを「論理」と「文学」というように二項対立にしてしまうことによって、「論理」的な表現を痩せ細らせてしまい、「文学」もまた狭義の意味に閉じ込められることになる。ひいてはこの社会のなかで生き生きと言葉を動かしていくエンジンそのものを弱体化させるようなカリキュラムになるというのが現状での暗い予測である。
「コミュニケーションごっこ」の罠
象徴的なのが、「大学入学共通テスト」のプレテストに現れる種類の異なる複数の資料である。「新学習指導要領」でも同じく強調されているのが、文章だけでなく、図表やグラフ、写真などの異なる資料をまたいで、適切に情報を把握し、構造的に理解するという教材形式である。笑ってしまうのは、プレテストには「国語」の問題の至るところで、また他の教科でも、この複数の資料が氾濫していたことである。よほど図表やグラフが好きなのだろう。明らかにこれは「読む」ことに属する学習のはずである。
ところが、図表やグラフなどから情報を抽出することは、出題者にはどうも情報の読解と認識されていない。情報と情報の関係付けをさかんに求めるのだが、その情報は資料を「読む」ことを通してしか得ることはできない。図表やグラフ、写真などを「読む」ことがどれだけたいへんか。私たちはすでに統計データの改ざんや見せ方による解釈の偏向、フェイク画像によってさんざんだまされてきた。これらの資料の真偽を見極めながら、そこに隠された複数の情報を読み解くことこそ、これからの大事なリテラシーではないか。
しかし、「新学習指導要領」に基づく授業モデルは、こうしたリアルで実際的なリテラシー教育ではない。「アクティブ・ラーニング」という名の下に、話し合いをしたり、文章を書いたり、相互チェックをしあったりすることが「国語」の中心に置かれている。でも、どうだろう。会議をしたようなふりをして合意し、画に描いたようなセリフを言うことで、話し合いのロールプレイをすることにならないか。もっと、正直なガチの話し合いについては、引っ込み思案で腰が引けていて、先に妥協することを考えてしまうような日常を過ごすことになるのではないか。同年代とはいえ、見知らぬ他人のなかに放り出され、学校という管理空間に閉じ込められたら、率直に話し合うようになるまでにどれだけの時間と手間が必要か。うかつなことは言えない、そんな緊張感に満ちた生徒たちの間で実現するのは、ほどほどの「コミュニケーションごっこ」であろう。
まず、教員がその「ごっこ」遊びを演じているではないか。官僚もまた同じである。さらに企業人がその典型である。そうでなかったら、LGBTの人たちはもっと早くにカミングアウトできただろうし、いじめやハラスメントがここまで隠蔽されることはなかっただろう。「学習指導要領」改訂派の授業モデルには、多数決を乗り越えた議論をしようという単元があるが、合意形成に向けたマップを事前に作る授業は、ゴールの決まった双六遊びに過ぎない。簡単に結論が出ないにもかかわらず、議論をしたようなふりをすることは百害こそあって一利にもならない。多様性とは両立しえない互いの差異を認めることからしか始まらない。しかし、「学習指導要領」改訂派の見解からは、口先で多様性を語ることしか出てこない。「話すこと・聞くこと」「書くこと」によって主体性を引き出すというとき、個々の主体性をぶつけ合うことの怖いほどのリアリティがここにはない。「多様性ごっこ」は真の多様性を損ねる。そのことを私たちはあらためて学ばなければならないのだろうか。
言葉の通じ合わない社会?
教育はつねに大人である私たち自身の「鏡」としてある。私たちの弱点、欠けているところを踏まえなければ、生徒たちの心と体に届く言葉にはならない。
たしかに、これまでの「国語」教育が全面的に肯定できるわけではない。与えられた教材を受け身のままでとらえ、出来合いの解釈をただひたすら伝え、覚えさせるような授業もあったかもしれない。しかし、そうした授業をしてきた教員は、恫喝して「アクティブ・ラーニング」をやらせたからといって劇的に変わるはずがない。そのような教員を生み出す環境を作ったのは文科省であり、私たちの社会である。残業代も出なければ、休日祝日の出勤を当たり前とするような労働環境を放置し、仕事を増やしつづけてきたのが文科省である。「国語」は言葉の教育をめぐる科目である。教員同士がアクティブになれず、主体的かつ対話的になれない状態のままで、「アクティブ・ラーニング」の方法論をどんなに磨いても効果はない。
「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」は、言語活動の4つの領域であるが、すべてがバランス良く独立して機能しているものではない。「読む」ことを通して、生徒たちはさまざまな言葉や文体を知り、共感や反発を通して「話す」べき、「書く」べき言葉を自らの内に生み出していく。最初から人間の内部にあふれ出るような主体性があるととしてそれを前提にしたら大間違いである。「読む」こと、「聞く」ことを通して刺戟を与えつづけること、それにより生徒たちが「話す」言葉、「書く」言葉を見つけることになる。「読む」「聞く」から、「話す」「書く」へ、こうした連続性のある総合的な言語教育こそが重要なのではないか。話したつもり、書いたつもり、学校はそんな「ごっこ」遊びで行きましょう──このままだと「新学習指導要領」はそう言っているように見える。しかし、その結果、現れてくるのはほんとうに言葉の通じ合わない社会である。それは絶望的なディストピアである。