1995年3月20日にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件から、この春で25年が経過した。新型コロナウイルス感染の社会不安のなか、当時の雰囲気を思い起こした人もいただろう。サリン被害者の訃報、上九一色村の新たな動き……カルト宗教が起こした無差別テロは、まだ「過去の歴史」ではなく「同時代史」であるはずだ。『オウム真理教 偽りの救済』の著者である瀬口晴義さんにご寄稿いただいた。
晩秋の2019年11月26日、地下鉄サリン事件の実行犯だった1人の元死刑囚(執行時:54)の墓を訪れた。オウム真理教幹部の2度目の処刑から1年と4カ月の月命日だった。
一流大学在学中に出家してから29年ぶりに戻ってきた長男の遺骨を家族が納骨したのは、執行から1年後のことだった。関東地方の私鉄の駅から車で15分ほどのところに墓苑はあった。近くの川では多くの釣り人がのどかに釣り糸を垂れていた。形も大きさもばらばらな墓石が並ぶ一角に彼の墓があるのを見つけた。山の奥にひっそりとたたずむ寂しい墓地を勝手に想像していた。そうではないところに彼が眠っていることになぜか安心した。
墓参りに行くことを遺族に手紙で伝えると、感謝の言葉とともに「月日の流れの速さに驚いています」との感想が返ってきた。死刑執行から半年もすると、あれほど社会を震撼させた事件がメディアで取り上げられる機会は少なくなった。
社会が事件の記憶を失い、指弾の視線が薄らぐことは、加害者側の家族にとってはある意味、救われることなのかもしれない。しかし、大切な人を失った遺族や今も後遺症に苦しむ被害者たちにとって事件に終わりなどない。教団の後継団体の「アレフ」や「ひかりの輪」などが、麻原彰晃(本名・松本智津夫)への信仰を今も保ち、事件を知らない世代に勧誘を続けているのだからなおさらだ。
公安調査庁によると、後継組織では20代以下の割合が増加しており、団体名を隠してヨガ教室などへの参加を勧めているという。アレフはお布施などによって毎年資産を増やしながらも、地下鉄サリン事件の被害者などへの賠償金支払いは滞っている。未払いの10億円の賠償金を巡る訴訟では、1、2審ともに全額の支払いを命じる判決を言い渡し、アレフは上告受理を申し立てている。
14人目の死者
地下鉄サリン事件から四半世紀の節目は、新型コロナウイルスの感染拡大の渦中で迎えることになった。そんな折、1人の被害者の訃報(ふほう)に胸を打たれた。事件発生から25年近い闘病を続けていた浅川幸子さん(56)が3月10日に死去したのだ。死因はサリン中毒による低酸素脳症。無差別テロ事件で14人目の死者だった。
3月19日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見した兄の浅川一雄さん(60)は「さっちゃんは25年間、本当に頑張った。ゆっくり休もう」と声を掛けたという。いたわるように話したのが印象的だった。幸子さんは勤務先の研修に向かうため、普段は乗らない丸ノ内線に乗車。そこで被害に遭い、心肺停止の状態で救助された。医療機関の懸命の蘇生措置で一命を取り留めたものの全身まひ、視力も失い、言語障害が残った。一雄さんは幸子さんを自宅に引き取り食事や排せつの面倒をみた。
わずかに言葉を発するだけだったが、時々、「オウム、大ばか、死刑」と口にするのが一雄さんには分かった。車いすで家族とともに最高裁に行き、教団幹部の死刑判決を聞いたこともあった。記者会見の場に車いすの幸子さんを連れてきたこともあった。2017年には体が硬直して顔が上を向いたままになり、言葉を話せなくなった。胃に直接栄養を流し込む胃ろうによって命を永らえていた。
この時期に幸子さんが旅立ったのは、罪のない多くの人を巻き込んだ事件を決して忘れないでほしい、という願いをその身で示してくれたように思えてならない。
バトンを受け取って
遺族や被害者らが3月14日に東京都内で予定していた25周年の集会は中止になった。新型コロナウイルスの感染拡大を受けての苦渋の判断だった。集会では遺族や被害者がスピーチし、参加者とディスカッションなどをする予定だった。
「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズヱさん(73)は、この集会を遺族らが主催する会としては最後にするつもりだったという。その真意を3月20日、夫の一正さん(当時:50)が殉職した東京メトロ霞ケ関駅に献花した際、報道陣の取材に以下のように語った。
「集会を二十五年で最後にしようと思ったのは、私が年のせいで大変になってきたからです。どうして被害者や遺族が語り部を担わなければいけないのかと思っていましたし、人材や資金、準備に取られる時間などの負担もありました。今後は私たちが主体的に開催することはなくなります。政府の方々、関係省庁、団体には、どうか私たちのバトンを受け取っていただきたいです。これからは静かに主人との思い出を振り返ることが多くなると思います」(東京新聞3月21日朝刊)
かつて高橋さんは私に強い口調で語ったことがある。「遺族には風化なんてないのです。事件が風化していく責任を、どうして遺族が取らされなくてはならないのですか? 被害者に向かって『風化』と言わないでほしい。風化の心配より、これから何を教訓にしていくのかを記者の皆さんには考えてほしい」
遺族や被害者の中ではオウム事件は「同時代史」であり続ける。決して「歴史」にはならないのだ。
高橋さんは以前、刑事事件の記録やさまざまな資料や映像をいつでも、誰でも閲覧できる資料館のようなものがつくれないか、と考えていると語っていた。こうした施設をつくることも含めて、行政やメディアはカルト宗教による事件を繰り返さないためにもっと知恵を絞るべきだろう。遺族や被害者の奮闘に頼るだけではいけない。
記憶を伝える
記憶を伝えていこうという新たな動きも起きている。「サティアン」と呼ばれる教団の拠点施設があった山梨県上九一色村(現甲府市、富士河口湖町)の住民が、教団と闘った歴史を保存しようとしている。1991年から1年数カ月にわたり24時間態勢で記録した「監視日誌」や、サリン大量製造工場にしようとした「第7サティアン」にあったガスマスク、ホーリーネーム(宗教名)の入ったヘルメットなど1000点以上の資料が公民館に雑然と置かれていたが、今後は資料に目録を付けて管理するという(東京新聞3月18日夕刊)。
資料の大半は教団が破産した96年以降、破産管財人から住民が譲り受けたもので、一時は処分を検討したが、幹部の死刑執行後、事件の風化が進む状況に危機感を覚え保存することにしたという。東京新聞の取材にかつて教団対策委員長を務めた江川透さん(83)は「地下鉄サリン事件を起こしたオウムが確かにこの地にいたという事実を残したい。闘いの軌跡や止められなかった反省もひっくるめて」「まだ後継団体の信者は残っている。二度と同じような事件を繰り返させてはだめだ」(同上)と語っている。
「第7サティアン」など、教団施設が集中した地域の建物は壊され、更地になった。私が地下鉄サリン事件から15年を迎える2010年3月に訪ねた時、事件を想起させるのは慰霊碑があるだけだった。碑には何の説明文もなく、事件に関心を持つ人が訪れても、ここが1400人にも上った出家信者の最大拠点だったとは想像できないだろう。それだけに、当時の教団信者たちの生活をほうふつさせる資料を地元住民が公開することには大きな意味がある。