そして、その不都合な真実に目をつぶることができなくなったのは、2017 年以降の「#MeToo」運動の流れの中で、女性たちがさまざまなかたちで性差別や性暴力の現状に抗議の声をあげてきたからです。
特に、テレビ局の女性記者が財務省事務次官からのセクハラを明らかにしたことで、メディアの世界におけるセクハラに注目が集まったことは大きかった。メディアの中で、女性たちを中心に、報道にもまたジェンダー・バイアスが埋め込まれていたことへの反省が生まれ、「変えなくてはならない」という意識が広がってきたと思います。それによって、ジェンダー・ギャップ指数のように、これまでなら掲載されなかったニュースも大きく報じられるようになりました。
また、海外の状況も影響しているように思います。世界では今、若いフェミニストたちが、音楽や映画などのエンターテインメント産業を巻き込んで活発に発信をしています。ハリウッド映画も最近は、強くてかっこいい女性が出てくるのが当たり前になっているし、韓国映画もそう。韓国のフェミニズム小説も、かなり翻訳されて日本に入ってくるようになっていますね。
日本の女性たちもそういうものに触れることで、これまで「おかしい」と思いながらも言葉にできずにいたことを、言語化する手がかりが得られるようになったと思います。改めて過去の自分の体験を振り返って「あれはハラスメントだったんだ」と気づかされた人がたくさんいたのではないでしょうか。
これまでの日本社会ではセクハラも「不快なこと」としてすまされがちでした。でも、差別と不快はまったく別のものです。差別は人権侵害であり、人の尊厳を傷つけることです。それを「不快」という言葉でとらえている限りは、まったく先に進めないと思います。女性やマイノリティが日々経験する扱われ方は、攻撃、威圧、脅し、騙し、貶めなどであり、そのときの感情は「不快」という言葉などでは表しきれない、深い悲しみ、痛み、そして怒りではないでしょうか。「不快」ではなく「差別」として認識することが、ハラスメント防止には不可欠だと思います。
多様性が支える「民主主義」と「イノベーション」
今回の森発言もメディアにおいては「不適切な」発言、という取り上げられ方が多かったように思います。「不適切」も「不快」と同じくらい曖昧な表現で、何が問題なのかということをぼやかしてしまう危険性があります。
先に述べたように、森発言は女性を排除する効果を持ったことが問題で、その背景にある「女性が意思決定の場に入れない性差別構造」そのものを直視する必要があります。こうした性差別構造をスピーディに改善していくためには、あらかじめ一定数を女性あるいは男女双方に割り当てる「クオータ制」は有効なツールの一つですが、前提として正しい問題認識がなければ、うまく機能させることはできないでしょう。
なぜ意思決定の場における多様性が重要なのか。まず、政治の場などにおいては、やはり民主主義だからです。特定の属性を構造的に排除する意思決定は民主的であるとは言えません。女性がいないのであれば、それは民主主義とは呼べない、ということです。女性がこれだけ少ないというのは、選出までの過程に問題があることを意味していますから、それを見直し変革する必要があるのです。それさえできていない日本の現状は、いかに民主主義が機能していないかを示すものでもあります。
議会において性差に大きな偏りがある状態が何十年にもわたって放置されてきた結果として、みんなのための政策決定ではなく、一部の人たちがぎゅうじる政治となってしまっています。
では企業のような、必ずしも民主的規範を前提としない組織においては、意思決定の場に多様性は必要ないのか。もちろんそんなことはありません。現代社会においては、イノベーションによってどんどん新しい価値をつくり出していかないと、企業自体の価値が下がっていって生き残れなくなる。そして、そのイノベーションを生み出すためには、多様な視点を入れていくことが絶対に必要です。事実、グローバルに展開している企業であればあるほど、投資家の意向を反映して多様性を重視せざるを得なくなっています。世界では、イノベーションを起こして収益を上げられる企業を投資家が見極めるときに、役員や従業員の女性比率が一つのわかりやすい指標と考えられるようになっているからです。同質的な集団は、もはや経営リスクでしかありません。
民主主義とイノベーション、まったく違う二つの理屈から、多様性が必要とされているわけです。これは女性だけのことではなく、障害者や若者、セクシュアル・マイノリティなど、あらゆるマイノリティに通じることで、意思決定の場から排除されている属性があるのであれば、障壁を一つひとつ壊していく必要性があるのです。
女性が意思決定に参加するための三つの実践
私は、多様性を実現して女性が意思決定の場、そして政治の場に参加していくためには、三つのことを実践していく必要があると考えています。
まず一つ目は「女性がいないことを問題視する」こと。社会のどんな場に女性がいて、どんな場にいないのかをつぶさに問うていくことです。女性議員も女性閣僚もまだまだ非常に少ないし、どの政党も要職はほとんどが男性。企業の役員における女性割合も、以前より増えたとはいえ上場企業で6%強にすぎません。また、もっと身近なところでは、町内会長、PTA会長、生徒会長、校長なども、驚くほど女性が少ない。一方でケア労働は圧倒的に女性が多く従事し、災害時などの炊き出しも女性が中心になってやっていたりしますよね。
そうやって見ていくと、男女の職域分業は根強く残っていて、「これは男性の仕事」「これは女性の仕事」と分かれていることがわかります。そして、男性が多い仕事は社会的価値が高いとされる一方、女性が多い仕事は価値が低く、賃金も非常に低いことが多い。そういう問題に気づいて、声をあげていくことがまず第一歩です。
なぜ女性が多い仕事の社会的価値が低いかというと、たいていの場合は「女性だったら誰でもできる仕事」と思われているからです。保育や介護などのケア労働、また家事や育児などが典型的ですね。女性なら誰でも生まれながらに赤ちゃんや子どもをかわいいと思い、ケアのスキルが備わっているとみなされがち。そうして「女性って素晴らしい」と持ち上げながら、実は安く、もしくはただでこき使うという阿漕(あこぎ)なことが行われてきたわけです。このロジックに気がついて、女性が主に担ってきた仕事の価値を見直していく。そうして「女性を正当に評価する」ことが、二番目のステップだと思います。
女性差別発言
2021年2月3日、元総理大臣・森喜朗氏は、JOC(日本オリンピック委員会)の臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」「女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困ると言っておられた。だれが言ったとは言わないが」などと発言。さらに、「組織委員会に女性は7人くらいおりますが、みなさん、わきまえておられて」とも話した。
イノベーション
「新結合」「新機軸」「新しい切り口」などの意。