「お父さん」と泣く母の姿
墓石をたわしでごしごしと磨く音がする。
中学3年生の翔太君(仮名、14歳)は、冷たい水に濡れた手を黙々と動かしていた。
墓石の前には新しく取り替えたばかりの菊の花々が並ぶ。翔太君に向かって、墓石に眠る父親のことを問い掛けると、こんな言葉が返ってきた。
「お父さんの記憶は少ししかありません。幼稚園のアルバムを見るとたまに思い出すぐらいかな。こんなこともあったなと。原発が原因で亡くなったのは確かだけど、お父さん1人が原発の被害者じゃないから」
曇り空から時折、雨がぱらつき、辺りに積もった雪が、固くなっていた。
2021年2月2日午前、福島県相馬市玉野。
ここは福島第1原子力発電所から約50キロ離れた、人口341人の小さな村落だ。私たちが訪れた墓地は、勾配が急な坂道を100メートルほど上ったところにあった。
そこで翔太君は、墓石の掃除をしていたのだ。
「お母さんは普段、大変そうな素振りは見せませんけど、たまにお酒飲んで酔っぱらうと『お父さん』って口にして泣いています」
そしてため息をつき、困ったような顔をした。
「そういう時、何とお母さんに声をかけていいのかわからない」
翔太君はマッチの火で灯した線香を供え、目を閉じてそっと手を合わせた。
静かな時間が流れた。
下の駐車スペースでは、翔太君の母でフィリピン人のバネッサさん(42)が車の中で待機していた。一緒にいる友人と大笑いしている。「泣いていました」という翔太君の言葉とは裏腹な、底抜けの明るさだ。墓参にはバネッサさんも同行したがっていたのだが、右足を怪我していたので、車の中で待ってもらっていた。戻ってきた私たちに気づいたバネッサさんが一言。
「クヤ!(タガログ語で“お兄さん”の意)、行くよ」
墓地を出発した。車で北上すること数分。向かった先は、バネッサさんの夫、菅野重清さん(当時54歳)が、「原発さえなければ」という遺言を残し、自殺したかつての牧場だ。それは東日本大震災が発生してから3カ月後の、2011年6月10日のことだった。
遺言は、堆肥小屋のベニヤ板の壁に、白いチョークでこう書かれていた。
原発さえなければ
残った酪農家は原発にまけないで願張て下さい
先立つ不幸を
仕事をする気力をなくしました
ごめんなさい なにもできない父親でした
仏様の両親にももうしわけございません
2011 6/10 PM1:30
(原文ママ、一部抜粋)
この直後、重清さんはロープで首を吊った。
重清さんの自殺からおよそ半年後。当時、フィリピンに住んでいた私はバネッサさんに初めて会った。年末年始のクリスマス休暇で、バネッサさんと子どもたちがフィリピンの親戚宅に身を寄せていた時のことだ。翔太君はまだ5歳の幼稚園児で、お父さんの死に関しては、事情がよく分かっていないようだった。
「お父さんは病気で死んだんだよ。お母さんはすごい泣いた。お母さんの泣くところ初めて見た」
以来、私はバネッサさん一家のその後を追い続けてきた。
孤独に打ちひしがれ命を絶つ
くりっとした目のバネッサさんは、笑うと目尻のしわが優しく見える、小柄な女性だ。タガログ語の口癖は「私の人生は大変」(Mahirap ang buhay ko)。夫に先立たれ、女手ひとつで子ども2人を育ててきた。子どもの成長に伴って教育費はかさみ、厳しい生活が続いていたため、連絡を取るたびにそう漏らしていた。震災後の10年で、彼女の口から最も多く聞いたタガログ語だったように思う。
そんな彼女は、首都マニラ近郊のラグナ州で育った。幼い頃から両親は靴の製造工場で共働きしていたため、祖母に育てられた「おばあちゃんっ子」だ。高校を卒業後は、下着の梱包作業という単純労働に就いた。両親が離婚して経済的な余裕がなかったため、大学には進学できなかった。
重清さんと出会ったのは20代前半の頃。きっかけは集団見合いだ。東北や四国など日本の農村地方では1980年代半ばから、深刻化する嫁不足に歯止めを掛けるため、集団見合いによる外国人との結婚が相次いだ。嫁いでくるのは主に中国やフィリピン出身の女性で、彼女たちは「農村花嫁」と呼ばれていた。
そうした経緯で重清さんと結婚し、バネッサさんは2002年2月に来日。初めて相馬市玉野にたどり着いた時のことを、こう振り返る。
「家がほとんどなくて山だけ。私が想像していた日本のイメージは高層ビルにたくさんのネオン。だからここは日本なの?と。すごい雪だし、寒い。カラスもいっぱいいて恐かった。すぐにフィリピン帰りたくなって毎日泣いたわ」
ホームシックになりながらも、酪農の仕事を手伝った。