バネッサさんは在日歴20年近くになるが、日本語があまりできない。取材を始めた当初は、過疎地での生活に馴染めなかったのがその理由だと思っていたが、家業は熱心にやっていたようだ。
「牛の仕事は旦那さんが教えてくれて、段々覚えたの。牛に餌をあげたり、機械やタンクの掃除をしたり。私がトラックを運転して、藁や籾殻も運んだ。だから免許はマニュアルよ。ユンボも運転できるよ!それで旦那さんに毎月、お小遣いもらったの」
子ども2人にも恵まれ、重清さんとは近くの温泉や釣りに出掛けた。たまに喧嘩になると、「フィリピン帰る!」「帰れ!」などと言い合ったのも、今となっては微笑ましい思い出だ。そんな結婚生活が10年続き、震災の発生に伴って福島第1原子力発電所の事故が起きた。
重清さん一家に怪我などはなかったが、事故後、福島県の原乳が出荷停止になった。牛の乳は人間の都合で止められるものではなく、搾らなければ牛が病気になる。重清さんは朝、夕に原乳を搾っては捨て続けた。前年末に完成した堆肥小屋の借金500万円の返済が残っている中、牛の餌となる牧草の採取禁止措置も取られたため、収入が途絶えるどころか、餌の購入費用がかさんで支出ばかりが増えた。
そんな生活に追い打ちを掛けるかのように、フィリピン政府の勧告に基づき、バネッサさんと子ども2人は4月半ばにフィリピンへ一時避難。牧場に1人残された重清さんは、孤独に耐えられず、その10日後には牛の搾乳を投げだし、バネッサさんを追ってフィリピンへ渡った。重清さんのことを良く知る酪農家の1人は、当時をこう振り返った。
「よほど切羽詰まった状況にはちげえねえんだな。夜搾ってそのまま朝行ったんだ。だから、お隣の人が行ってみたら、牛鳴いてるって。私たちが1番心配したのは、今まで一緒にいた奧さんと子どもが避難して行っちゃったことだ。いつまで1人でいなくちゃならねえのか、と悲観しちゃったんじゃねえの。牛を捨てて黙って行っちゃったんだから、生き物ぶん投げて行くぐれえだから」
放り出された牛約40頭の世話は近隣住民たちで行われたが、これ以上迷惑は掛けられないと、重清さんの姉が牛の売却を決めた。重清さんは間もなく帰国したが、借金返済の目処も立たず、近隣住民に迷惑を掛けた負い目から自宅に引きこもった。
そして人生にピリオドを打った。
バネッサさんら3人は急きょ日本に帰国し、重清さんの亡骸と対面した。葬儀の後、牛がいなくなった牧場での生活は断念し、そこから車で約1時間かかる伊達市の平屋住宅へ引っ越した。そして2013年5月、東電に約1億2000万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
東電幹部の謝罪訪問なし、対応に「格差」
損害賠償請求訴訟は、あるドキュメンタリー映画監督から提案されて実現した。バネッサさんを主人公にした映画の撮影も同時に進められていたが、監督との間で金銭をめぐるトラブルが起こり、関係が決裂(詳細は2015年11月発売の雑誌「新潮45」掲載の拙稿)。監督不在のまま、審理が始まった。
争点は、原発事故と自殺との因果関係。バネッサさん側と東電の主張はかみ合わず、平行線をたどったが、提訴から2年半後の2015年12月、和解に至った。東京地裁の会議室で行われた会見では、私の通訳を介して、バネッサさんは涙ぐみながら語った。
「今は嬉しさと悲しさの2つの気持ちがあります。嬉しいのは、少しのお金が手に入り、子どもの将来に役立てられること。悲しいのは、私の夫はもう二度と生き返ることはなく、私たちのサポートができないことです」
バネッサさんは洟をすすり、その場で号泣した。
「日々の人生において、夫との幸せだった瞬間を忘れることはできません。夫がいないのも私の人生ですが、でも私には子どもがいて、育てていかなければいけません。だから子どもたちのために、今後も生きていきます」
力強い決意表明に、会場から拍手が湧き上がった。
この直後、私が東電の広報室に電話で取材を申し込むと、応対した男性は次のように答えた。
「当社事故により福島県民の皆さまを始め、多くの皆さまに大変なご迷惑と心配をお掛けしていることについて、あらためて心からお詫び申し上げます。また、重清様がお亡くなりになられたことについて、心よりご冥福をお祈り致します。訴訟の詳細につきましては、個別の訴訟に関わることなのでコメントを差し控えさせて頂きます」
原発事故と自殺の因果関係が争われた裁判の判例は、私が調べた限り、バネッサさんを含めてこれまでに4例ある。バネッサさん以外の3例は原告が日本人で、東電の幹部が彼らの自宅を訪れて献花し、謝罪をしている。
しかし、バネッサさんの訴訟については、東電幹部からの訪問はなく、メディア向けに用意されたコメントが読み上げられただけだった。
今回、東電広報室の担当者に改めて取材すると、遺族の自宅を訪問しなかったことを認めた上で、その理由についてはばつが悪そうな口調でこう答えた。
「お亡くなりになられた重清様にお詫びといいますか、ご冥福をお祈りするコメントを出させて頂いております。直接出向いて謝罪という形は確かに取れていませんが、そのような形のコメントで謝罪の意といいますか、対応させて頂いています」
訪問しなかった理由の回答になっていなかったので再び尋ねた。
「その点は、ご遺族ですとか原告の方とのやり取りの内容に関わってきますので、我々からの能動的な回答は控えさせて頂きます」
何度尋ねても同じ回答を繰り返すばかりで、なぜバネッサさんの自宅だけ訪問しなかったのか、最後まで分からなかった。コメントが書かれた書面は送ったのか、との問いについても「お答えできません」の一点張りだったが、バネッサさんに確認してみると、彼女のもとには届いていなかった。
琴線に触れた遺言の言葉
東電との和解が成立したことで、重清さんの遺言が書かれたベニヤ板は牧場から取り外された。牧場を相続したバネッサさんの了解を得て、弁護士や訴訟関係者らが「原発の悲惨な実態を後世に伝える」目的で、福島県白河市にある原発災害情報センターで保管されることになった。