牧場は入口からだと、奥行き100メートルぐらいだろうか。とにかく広い。最も奥に、現場となった堆肥小屋がある。壁に書かれた遺言の部分は、新しいベニヤ板に張り替えられ、その痕跡は分からない。以前は供えられていた線香立てもなく、農機具のようなものが置きっぱなしになっていた。今回、墓参の後にそこを訪れた翔太君は、張り替えの経緯を知らなかったようで、「なんで板がなくなっているの?」と首を傾げていたので、私が概要を説明した。
翔太君が遺言を初めて見たのは、重清さんの自殺の直後だった。まだ幼稚園児のため、何が書いてあるのか分からなかった。小学4年生の夏に私と会った時には、父親の死についてこう語っていた。
「お父さんは、住民を原発から守ろうとして死んじゃったの。それでチョークでこう書いてあったんだよ。『原発さえなければ』って。俺見たよ。原発作った人には死刑を言い渡したい。だってさ、人の命亡くしたんだよ。それでさ、原発作った自分は普通に生きているんだよ。人の命が消えているのにさあ、自分は普通に生きているって何かおかしいと思うよ」
その言葉には、子どもながら理不尽への怒りが感じられた。
そして中学校の卒業を間近に控えた翔太君に今、あらためて父親の遺言について尋ねてみた。
「見た記憶少ししかないからな。ネットとかで記事がたくさんあるから見てみたけど、こんなふうに書いてあったんだと。全部意味が分かったのはここ最近かな」
そう語る翔太君は、しんみりした表情でこんな思いを口にした。
「お父さんは責任感つええんだなって。『なにもできない父親でごめんなさい』って」
しばらく沈黙が流れた。
遺言の中でも、その言葉が特に琴線に触れたのだろう。原発を糾弾するというよりは、父親の心情に寄り添った気持ちだ。人間は成長とともに、事象や出来事に対する受け止め方や解釈の仕方が変化する。もっと大人になれば、父親の自殺について、あるいは原発についての考えが今以上に整理され、やがて固まっていくだろう。その時翔太君は、どんな言葉で表現するのか。
かつて約40頭の牛が飼われていた牛舎はがらんとして、水を打ったように静まり返っていた。牛と牛の間を仕切る鉄棒は、さび付いて赤茶け、壁の板もすっかり古びて、老朽化が進んでいた。鉄棒に取り付けられた小さな黒板には、「配合」「ビート」「ヘイキューブ」と手書きされた白いチョークの文字が残されたまま。飼料の専門用語で、恐らく、重清さんの字だろう。
そこから歩いて約1分のところにある2階建ての一軒家には、かつて一家4人が暮らしていた。現在は空き家になっているが、家の中は蜘蛛の巣やほこりだらけだった。
台所の食器や調味料、お風呂場の水鉄砲、洗面台の歯磨き粉、食器棚に貼られた小学校の予定表、衣類の入った段ボール箱……。4人が生活していたことを示す雑貨や家財道具はまだ残されており、そんな部屋をひとつひとつ確認しながら、バネッサさんが言った。
「使われていないのがもったいないよね」
翔太君も懐かしくなったのか、ドラえもんのぬりえを手に取って眺めていた。
私たちがいる家の中は、あの日から時計の針が止まっているかのようだった。
交錯する母国と子どもへの思い
翔太君は春から高校に進学する。年子の長男は、県内の進学校に通う高校2年生で、部活のサッカーに打ち込む忙しい日々だ。
そんな子ども2人とバネッサさんは現在、家賃3万6000円の平屋住宅で暮らす。重清さんの死後に引っ越してからずっとそのままだ。バネッサさんはこれまで、ラーメンの製造工場やホテルの清掃などの職場を転々としてきたが、現在は老人ホームでの介護職に落ち着いた。入浴介助や食事の補助などだ。おばあちゃんっ子だったからか、仕事の話になると、顔がパッと明るくなった。
「仕事楽しい。じいちゃん、ばあちゃんの面倒みるの大好き。私はご飯食べさせたりするのが上手だって。バネちゃんいないと困るって言われる」
週末はスナックでも働く。介護の仕事だけではやっていけないためだ。昨年秋ごろからは、新型コロナの影響で夜間の仕事ができなくなった。東電から支給された和解金は、フィリピンにいる母親や親族に家を購入したため、手元にはほとんど残っていない。それでも知人に借金を申し込まれ、貸したけど返ってこないと嘆く。遺族年金や児童手当も支給されるが、食べ盛りの子どもの食費を考えると、生活はギリギリ。おまけに1月半ばには、家の玄関で転倒し、右足を怪我したため、仕事をしばらく休んだ。家賃も滞納してしまった。
「私の人生大変。コロナのせいで夜の仕事できない。シングルマザーは楽じゃないよ、ホントに。でも頑張るしかない」
いつもの口癖がまた出た。
バネッサさんは毎晩、ご飯が終わって1人で部屋に戻ると、スマホでフィリピンのドラマや映画を観る。そんな時、切なくなるのだという。
「たまに『お父さん』って泣いています」
そう口にした翔太君の言葉をぶつけてみると、バネッサさんの思いが溢れ出た。
「夫に先立たれ、もう誰も愛してくれないんじゃないかと思うと、やっぱり寂しいし、一生をともにしてくれる人が欲しい。子どもがいるのは分かっているけど、いつかは自分1人になるんじゃないかって。もうすぐ翔太の卒業式。クラスのみんなは両親そろっているけど、翔太には父親がいない。長男の卒業式の時は、校門で記念写真を撮れなかった。声を掛けづらくて。もしお父さんが今生きていたら、優秀な子どもたちをみて誇りに思うはずよ」
続けてこんな複雑な心境も吐露した。
「本当は子どもたちを連れてフィリピンに住もうと思っていたの。それも考えて故郷に家を買った。だって日本にいたら寂しいし、経済的に支えてくれるパートナーもいない。病気がちな母親や家族と離ればなれなのも寂しい。でも子どもたちは、フィリピンは暑いし、食事や水も合わないから嫌だって。だから子どものために日本にいることにしたの。私は子どものことを第一に考えているから、この悲しみはきっと乗り越えられるはずよ」
遠く離れた母国への思い、そして子どもへの愛情が交錯していた。
バレンタインデー、バネッサさんから私のスマホに何枚か写真が届いた。写っているのは白い皿に並んだ手作りのチョコレート。写真に添えられたメッセージにはこう書かれていた。
「翔太が作ってくれたの。お母さんのためにだって。嬉しい!」
あの日から10年――。