ヤン 私は大学まで朝鮮学校を出ましたけど、「四・三事件」という言葉すら聞いたことがなかった。これは恥ずかしい話なんですけど、四・三のことを知ったのは、私がニューヨークに留学したときでした。いい英語の先生がいて、よく生徒を自分の家に招いてくれたんです。彼女のパートナーが歴史学者を目指して勉強していた人だったんです。彼女の家に行くと彼がいて、歴史の話になる。それで、あるとき彼が私に「きみは在日コリアンなんだろ、それなら済州島を知っているだろ?」と聞いてきた。私は「ええ、父が済州島の出身です」と答えると「大変な虐殺があった場所だろ」と言ってきたんです。私は「いや、先生、それは光州で場所が違いますよ」と言い返したら、「いや、光州じゃない。違う、もっとむかしの話だ」と。私のほうが光州事件のことだと勘違いしていたくらいです。それが四・三事件を知るきっかけでした。
金 四・三事件に関する最初の研究書はアメリカで出版されたんだよ。
ヤン そうなんですね。今回の映画でも出てきますが、オモニは四・三のことを話したあと、アルツハイマーが進行するんです。そのあと、済州島に私と一緒に行くことになったのですが、済州島で方言を聞いたりしたら、記憶が戻るんじゃないかなとか期待したんです……。
金 それは逆だろうね。お母さんは、済州島での無意識の恐怖が蘇ったんじゃないかな。
ヤン 済州島にある「四・三研究所」の事務室で話しているときに所長が方言で、オモニに「むかしつらいことがたくさんあった場所ですけど、いまどう思われていますか?」と質問したんです。そしたらオモニが朝鮮語で「タ アンコシプスニダ(全部抱きしめたいです)」と言った。そこは映画に入れられなかったけど、所長も私もびっくりですよ。
金 それは本当にいい言葉だね。映画に入れられなかったのは残念だな。
映画の中でのお母さんの証言に出てくるけど、虐殺から逃れるために幼い兄弟を連れ30キロもの道を歩いていく。しかし、よく済州島から脱出するための密航船に乗れたと思うんです。四・三の人民蜂起と言われる側に立っていた連中がおったら、もうその場で誰であろうと撃ち殺された。だから、密航船の船頭も四・三事件に関わりのあると思った人は絶対乗せようとしない。
ヤン 当時、オモニのオモニ、ウエハルモニ(祖母)は大阪にいたんですね。行商のような仕事をしていたようです。彼女が必死にお金を貯めて、娘たちを日本に来させるために済州島にお金を送っていた。それで密航船に乗ることができたようなんです。
金 ああいう密航船は、前金制度だからね。
無視された四・三事件
――ほかに時鐘さんが印象に残っている場面はありますか?
金 四・三事件の70周年追悼式で、荒井さんがヨンヒさんのお父さんが勲章をいっぱい付けている写真をかかえて、立っておられたね。僕にはすこぶる異様な光景やった。
ヤン はい。実は、私も勲章は引っかかってはいたんです。北朝鮮政府からもらった勲章ですから。
金 言ったら悪いけど、総連の活動家で勲章もらってない人は、日本で2人しかいないって聞いたよ。そのうちの1人が僕や(笑)。僕は感謝状1枚もらったことない。
北からの勲章は、お父さんにとって自分の生きてきた証明だったんだろうね。だけど、北朝鮮の実情をもう全部知っておられるご両親が、どうして新興宗教の徹底した信者のように北を信奉するんだろうとは思うんだよ。
北の共和国は、総連幹部だと知るともう大臣のような扱いをする。ヨンヒさんのお兄さんは、率直に言えば北朝鮮に帰国して無念な死を迎えたじゃないですか。祖国建設の夢いっぱいで北に渡り、その夢が叶わなかったどころか、北に相手にされない状態で、精神に異常をきたしたんだよね。それは、あなたのお兄さんだけではないんだ。僕が知っているだけでも、何人もいた。ヨンヒさんは、直接的ではないにしても、そういう事象を映画で見せることで、遠回しに、北朝鮮のありように批判をぶつけている気はした。
――ヨンヒ監督は、朝鮮大学校で「ヂンダレ」(金時鐘、梁石日らが中心になって作っていた文藝同人誌。当初は民戦の要請で作られたが、のちに朝鮮総連から批判を受けた)をなぜ私たちに読ませないのだと言って教授に抗議したそうです。
金 あのお父さんの娘にしては上出来や(笑)。
ヤン 平壌にいる3人の兄たちが、あのアボジとオモニのもとで、私のことをえらいまともに育ったなって言っていました(笑)。本当に、総連しか知らない妹になったらどうしようと心配したそうです。
金 お母さんが北を支持する理由が僕にはよくわかる。四・三が起こった当時は李承晩の臨時政府の時代でした。その臨時政府を作り上げて押し上げたのはアメリカ占領軍です。アメリカの軍政が李承晩に作らせた。李承晩は48年から韓国の初代大統領になるけど、あの血しぶく嵐のような、無慈悲きわまる四・三の実情を目の当りにした者は、この政治家を絶対に許さないし、その政権には絶対与(くみ)しないと思うんだ。四・三事件もそのような心情に絡んでいるわけだ。
済州島四・三事件
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金石範(キム ソクポム)
1925年生まれ。「鴉の死」(1957)以来、済州島四・三事件を書きつづけ、1万1000枚の大長編『火山島』(1976~97年〉を完成。小説集に、『鴉の死』(新装版1971年)、『万徳幽霊奇譚』(1971年)、『1945年夏』(1974年)、『幽冥の肖像』(1982年)、『夢、草探し』(1995年)、『海の底から、地の底から』(2000年)、『満月』(2001年)、『地底の太陽』(2006年)、『海の底から』(2020年)、『満月の下の赤い海』(2022年7月刊行予定)など。評論集に『在日の思想』、『金石範評論集1 文学・言語論』(2019年)などがある。四・三事件に関して詩人の金時鐘氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(増補版2015年)がある。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
南朝鮮労働党(南労党)
1946年11月、朝鮮共産党・南朝鮮新民党・朝鮮人民党が合党し結成された。委員長許憲。46年8月の北朝鮮共産党と朝鮮新民党の合党による北朝鮮労働党結成の影響を受け、南朝鮮でも民主陣営を強化すべく呂運亭により3党合党が提起された。しかし共産党の路線転換とも重なり、方針をめぐって3党それぞれが2派に分裂、朴憲永ら左派グループは南朝鮮労働党結成を、呂運亭ら慎重派は社会労働党結成を推進した。呂運亭らは再三提案を行なったが、米軍政の弾圧激化、北朝鮮労働党の支持などにより、慎重派を排除したまま朴憲永中心に南労党が結成された。この結果、南労党は左右合作の可能性を排し米軍政に対抗する階級政党の性格を強く帯びることとなった。当初は米ソ共同委員会に大きな期待をかけていたが、その決裂後は米軍政による激しい弾圧を受け地下化、単独選挙に反対する実力闘争を展開した(5・10総選挙)。49年6月に北朝鮮労働党と合党、朝鮮労働党となる。(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店)より)
民団(在日本大韓民国民団)
大韓民国を支持する在日朝鮮人の団体。1946年、左派の在日本朝鮮人連盟に対抗し、自由主義派・保守派が在日本朝鮮居留民団を結成、48年大韓民国樹立に伴い在日本大韓民国居留民団と改称。94年現名称となる。(『広辞苑 第6版』(岩波書店)より)