四・三事件はね、韓国政府はもちろんだけど、北もまた一切無視していたんだ。それはなぜか。朝鮮戦争は1953年10月27日に休戦協定が成り立った。その直後、金日成〝元帥さま〟は、南朝鮮労働党(南労党)の書記長であった朴憲永(パク ホニョン)をアメリカのスパイとして処刑した。金日成がソ連の後押しによって作り上げたのが臨時人民委員会。つまりその委員会が臨時の政府の役目を果たして、やがて北朝鮮政府になっていく。朴憲永は戦前から抗日闘争をしていた人物でね。抗日闘争の人たちはほとんどが亡命するんだけど、彼は亡命することなく、10数回の逮捕、収監に耐えながらも国内で抵抗を続けてきた。だから、人望もあって彼のつながりは非常に広いのよ。ソ連にいた金日成よりも全国的につながりがあるんです。朴憲永は46年暮れに南朝鮮労働党を作り上げて書記長に就いていた。そのあと、50年に四・三による弾圧もあり党の主要メンバーが北に渡ったので、南労党は北の労働党と合体して朝鮮労働党ができた。それで彼が副委員長に就きます。ところが、朝鮮戦争が休戦協定になると、金日成によって即刻処刑された。それ以降、彼が所属していた南労党も、四・三事件も、一切無視され、その存在すら認められないままいまに至ります。
――政治、権力者の都合によって北朝鮮も韓国も済州島四・三事件の悲劇をずっと無視してきた。
金 そうです。韓国は2003年にようやく盧武鉉大統領が、四・三は国家的な罪であったことを公式に認めたわけだけど、北はまったく無視です。当時は南労党にかかわりがありそうな人をみんな殺したんだからね……。四・三を否認するのは、南労党の同志を殺したこととつながっているわけなんだ。
母の一番純粋な時期
金 ヨンヒさんのお父さん、お母さんは実生活の中で常に国家の歴史的なしがらみに翻弄され、苦悩、苦悶をかかえて生きなくてはならなかったんですよね。映画の中で、お母さんが過去の記憶を失ってもなお、金日成主席を称える歌をきちっと唄われるシーンは本当に胸にこみ上げるものがあったよ。人間であるとはどういうことか? 主義とはどういうことか? を考えさせられた。あそこは、詩をやる者として、思いが溢れてくるような場面だったね。
僕は歌の怖さをよく知っている。歌は多感なときに身についてしまうと一生忘れない。それは、帝国主義時代の日本国民もみんなそうだったんだから。子どもたちが歌を唄わされて、万歳三唱で兵隊を戦争に送ったんだからね。この映画で一番やりきれないシーンだったな。お母さん純粋なんだ。
ヤン オモニはカメラの前とカメラがないときと、ちょっと言うことが違ったりしました。
金 ヨンヒさんのお母さんは、もう何十年も総連の女性同盟の委員長をやっていて、自分がどう見られるかが身についているんだよ。
ヤン ある時期、オモニはさっきの先生の言葉で言えば〝北の新興宗教の信者〟として、北にいる兄たちのためだけに生きていこうと決めたように見えたときがあったんです。北朝鮮が話題になる国際ニュースも見ない、批判的なことが書かれた本も読まない。いまとなっては、私もオモニはそうとしか生きられなかったんだなと理解しますけど、若いときはオモニのことをとてもずるいと思っていました。「自分の子どもだけよければいいのか」とか、「日本で暮らしながら北朝鮮を支持するって、えらい楽やな」とかね。そう言うと、オモニはいつも私に「うるさいな」とか言い返してくるんです。
でも、アボジが亡くなったあとに私が「これはオモニが決めたらいいことやけど、もし私がいるからしょうがなく日本にいるんやったら、無理しないで、家を売って、そのお金を持って平壌で最期は孫と息子らと暮らしたらどう?」って聞いたんです。そしたら、何て言ったと思います?
金 北で暮らせないと言った?
ヤン そうです。「あの国では暮らせない」とはっきり言いました、ビックリしました。
オモニが唄うシーンは、娘としては、言わば洗脳された母親を世にさらす残酷なシーンだという自覚をしながら入れているんですけれども……。
金 でも、歌を唄うシーンでお母さんの隣にヨンヒさんがいるでしょう。この映画のいいところは、監督自身が自分をさらしているところです。自分の身をカメラの前にさらさないで、お母さんだけを撮っていたら、観る人によっては、「このお母さんは心を病んでいるのかな」とか感じてしまうかもしれんけど、それをカバーしているね。
お母さんの一番純粋な時期に、自分のすべてを出したというのが総連の活動なんだ。その純粋さを、まみれさせたくないって気持ちがあった。ただ単に北を批判したくないという気持ちだけじゃないんだ。僕は、お母さんの生き方からクロポトキンの言葉を思い出すな。
クロポトキンは、旧帝ロシアでは公爵という一番位の高い貴族です。にもかかわらず、無政府主義を唱え、投獄された。そのあと、脱出してヨーロッパ各地を40年近く転々として、無政府主義活動を続けた。やがて、自分の祖国のロシアに革命が起こる。1917年の十月社会主義革命になって帰国したんだけど、革命政府からはアナーキストとして受け入れられなかった。自分の願った国になったはずなのに、その願った国から外された。そのことをクロポトキンは書いているんだよね。彼の日記の一節だったと記憶しているけれど「いいじゃないか。そこには私の至純な歳月があったのだから」とあった。
僕は長らく組織から批判を受けて行き場もなく、大変な難渋を経たけど、いつも耐えられたのはこの言葉のおかげでした。お母さんの気持ちも、この言葉に近いんじゃないかな。だからお母さんを恨まないでほしい。
済州島四・三事件
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金石範(キム ソクポム)
1925年生まれ。「鴉の死」(1957)以来、済州島四・三事件を書きつづけ、1万1000枚の大長編『火山島』(1976~97年〉を完成。小説集に、『鴉の死』(新装版1971年)、『万徳幽霊奇譚』(1971年)、『1945年夏』(1974年)、『幽冥の肖像』(1982年)、『夢、草探し』(1995年)、『海の底から、地の底から』(2000年)、『満月』(2001年)、『地底の太陽』(2006年)、『海の底から』(2020年)、『満月の下の赤い海』(2022年7月刊行予定)など。評論集に『在日の思想』、『金石範評論集1 文学・言語論』(2019年)などがある。四・三事件に関して詩人の金時鐘氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(増補版2015年)がある。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
南朝鮮労働党(南労党)
1946年11月、朝鮮共産党・南朝鮮新民党・朝鮮人民党が合党し結成された。委員長許憲。46年8月の北朝鮮共産党と朝鮮新民党の合党による北朝鮮労働党結成の影響を受け、南朝鮮でも民主陣営を強化すべく呂運亭により3党合党が提起された。しかし共産党の路線転換とも重なり、方針をめぐって3党それぞれが2派に分裂、朴憲永ら左派グループは南朝鮮労働党結成を、呂運亭ら慎重派は社会労働党結成を推進した。呂運亭らは再三提案を行なったが、米軍政の弾圧激化、北朝鮮労働党の支持などにより、慎重派を排除したまま朴憲永中心に南労党が結成された。この結果、南労党は左右合作の可能性を排し米軍政に対抗する階級政党の性格を強く帯びることとなった。当初は米ソ共同委員会に大きな期待をかけていたが、その決裂後は米軍政による激しい弾圧を受け地下化、単独選挙に反対する実力闘争を展開した(5・10総選挙)。49年6月に北朝鮮労働党と合党、朝鮮労働党となる。(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店)より)
民団(在日本大韓民国民団)
大韓民国を支持する在日朝鮮人の団体。1946年、左派の在日本朝鮮人連盟に対抗し、自由主義派・保守派が在日本朝鮮居留民団を結成、48年大韓民国樹立に伴い在日本大韓民国居留民団と改称。94年現名称となる。(『広辞苑 第6版』(岩波書店)より)