ヤン 自分の人生を否定しては生きていけないですよね。オモニは、息子たちを北朝鮮に行かせる前までは商売をしていたんですよ。最初は、洋裁で生計を立てるためにミシンを踏んでいたんですが、そのあと食堂の仕事に就きました。大阪の肥後橋のビルの下で、人に任されてですけれども日本人のホワイトカラーのお客さんばっかりのレストランをやっていました。
金 そのお母さんが仕事をしていた店の「レストラン・サガ」、実は私が作ったんだ。
ヤン えっ! 時鐘先生が! とてもいいお店でした。子どもの頃、オモニと一緒にその店に行くとオモニが「ここではオモニじゃなくて〝お母さん〟と呼びや」って言うんです。私のこともヨンヒじゃなくて、エイコ。お店のお客さんが、日本のサラリーマンばっかりだったからでしょうね。なぜか、〝エイちゃん〟って呼ばれて(笑)。とても懐かしいです。あのときまでが、うちの家族が一番幸せだったときです。
「帰国事業」で起こったこと
金 ヨンヒさんは大阪の朝鮮高校出身でしたね?
ヤン ええ、そうです。
金 当時の校長は韓鶴洙(ハン ハクス)だった? そのあとか?
ヤン そのあとです。
金 韓鶴洙先生は朝鮮高校の初代校長だったんだけど、民族教育にも熱心で本当に生徒に慕われたいい先生だった。その先生に60年代の末に、北朝鮮から「指名帰国」(名指しで帰国させられること)が来た。帰国船に乗るため新潟へ向かうまで、夫婦で僕の家の2階にいたんだ。僕は必死に、帰るなと止めたんだよ。でも、韓先生は「私は祖国を信じる」と言って行っちゃった。帰国当初は特別扱い受けたようだけど、そのあと韓夫妻は強制収容所送り。向こうの政治闘争に敗れて粛清されたんだ……。先に北に渡っていたこども2人、娘1人、息子1人がいたんだけど、娘のほうは、日中に路上から連れていかれたまま、行方不明。息子から「日本の金で20万あったら結婚ができそうです。住まいもなんとかできそうです。姉さんがどこか遠いとこへ行かれまして、いま連絡がすぐは取れません。お父さんお母さんも行方がわからないままです」という手紙が僕のところへ来た。僕はすぐにお金を送ったんだけど、それがスパイから金をもらったということになって彼まで……。結婚式を控えていたのにね。あとから、彼が死んだことは克明にわかった。
ヤン 実は母の妹、私のイモ(叔母さん)も帰国しまして、そのあと結婚した相手が収容所に送られたんですね。少しでも気を緩めると、北に家族が引っ張っていかれるという状況から、うちのアボジとオモニが親戚中の要(かなめ)のようになった時期がありました。アボジの兄弟、アボジの男兄弟の子どもたち、みんな北に行っていますし、それは大変だったと思います。
金 ヨンヒさんも私もつまるところ、大変なテーマを預かったままだよ、本当に。
在日同胞の体面にかかわることは、日本語では表に出せないと思ってきたんだけどね。もう時代も変わったから、事実は事実で残そうと思って、僕のいま出ているコレクション(『金時鐘コレクション』藤原書店)の巻末のインタビューなんかでは話しているんだけどね。
映画に話を戻せば、今後の宿題として、ヨンヒさんに注文したいのは、できれば朝鮮総連の批判一つぐらいは映画の中でやってほしい。
ヤン それは実は前の作品、(『ディア・ピョンヤン』(2005年)、『愛しきソナ』(2009年)、『かぞくのくに』(2012年))でやっているんです。
金 そうか。失礼した。前作とのつながりもあるわけやな。それは観ないとあかんな。
北も北だけど、在日朝鮮人の権益を守る組織といわれた朝鮮総連が「帰国事業」の旗振りをしたんだよね。北は〝地上の楽園〟だといってね。北に行ってすぐ実情がみなわかって、行方不明者がだんだん出てくるのに、総連は北に問い合わせひとつしなかった。日本で生きている私が生涯根に持つのは、そういうことなんだ。1959年12月に帰国第1船が出るんだが、(朝鮮戦争の)休戦協定が成り立つのが53年7月。丸5年経ったかどうかの国が、〝地上の楽園〟たるはずがないだろうが。一望千里焼け野原だしね。そんな旗振りをした朝鮮総連をヨンヒさんも許しちゃならんよ。
ヤン 今回の映画では、金日成と金正日の肖像画を外したシーンに少し込めているかもしれません。何であのシーンを入れたんやって言う人もいたんですよ。
金 あれはいいシーンだったね。監督の意志がよく出ている場面だった。
いま日本で生きる在日の世代は、第5世代の人たちが子を育てる時代に入った。それでいてなお、私たちはいまもって〝自前の〟朝鮮人になりきれてないところがあってね。民団(在日本大韓民国民団)と総連の関係に見るような、対立する相手と関係性を切るんじゃなくて、普段、密接なごく習慣的つながりのなかで漫然とすごしてきている状態から切れていかないと、新しい関係性が作れない。切れて、またつながる必要がある。ヨンヒさんは、創作をする立場だからこれからもそういう判断を迫られるときがくるだろうね。まぁ、難しい作品を4つも作って、大変ご苦労やった。
その地の災いはその地の神が鎮める
済州島四・三事件
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金石範(キム ソクポム)
1925年生まれ。「鴉の死」(1957)以来、済州島四・三事件を書きつづけ、1万1000枚の大長編『火山島』(1976~97年〉を完成。小説集に、『鴉の死』(新装版1971年)、『万徳幽霊奇譚』(1971年)、『1945年夏』(1974年)、『幽冥の肖像』(1982年)、『夢、草探し』(1995年)、『海の底から、地の底から』(2000年)、『満月』(2001年)、『地底の太陽』(2006年)、『海の底から』(2020年)、『満月の下の赤い海』(2022年7月刊行予定)など。評論集に『在日の思想』、『金石範評論集1 文学・言語論』(2019年)などがある。四・三事件に関して詩人の金時鐘氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(増補版2015年)がある。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
南朝鮮労働党(南労党)
1946年11月、朝鮮共産党・南朝鮮新民党・朝鮮人民党が合党し結成された。委員長許憲。46年8月の北朝鮮共産党と朝鮮新民党の合党による北朝鮮労働党結成の影響を受け、南朝鮮でも民主陣営を強化すべく呂運亭により3党合党が提起された。しかし共産党の路線転換とも重なり、方針をめぐって3党それぞれが2派に分裂、朴憲永ら左派グループは南朝鮮労働党結成を、呂運亭ら慎重派は社会労働党結成を推進した。呂運亭らは再三提案を行なったが、米軍政の弾圧激化、北朝鮮労働党の支持などにより、慎重派を排除したまま朴憲永中心に南労党が結成された。この結果、南労党は左右合作の可能性を排し米軍政に対抗する階級政党の性格を強く帯びることとなった。当初は米ソ共同委員会に大きな期待をかけていたが、その決裂後は米軍政による激しい弾圧を受け地下化、単独選挙に反対する実力闘争を展開した(5・10総選挙)。49年6月に北朝鮮労働党と合党、朝鮮労働党となる。(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店)より)
民団(在日本大韓民国民団)
大韓民国を支持する在日朝鮮人の団体。1946年、左派の在日本朝鮮人連盟に対抗し、自由主義派・保守派が在日本朝鮮居留民団を結成、48年大韓民国樹立に伴い在日本大韓民国居留民団と改称。94年現名称となる。(『広辞苑 第6版』(岩波書店)より)